受け取る事、受け取って貰える事

日本に戻ってようやく1ヶ月、あっという間だけど、その間に引っ越し先を決めて、居を移し、目の治療のための病院も探して、再検査を受けて手術日も決めた。医者には「随分進んでますね。」と言われ、やっぱり即手術となりました。ここまでくると目薬も役に立たないいらしく、手術までは特に治療もなく、今まで通りの生活です。
流石に今回は本当に疲れているらしく、帰ってしばらくはカレーも食べたくなかったし、インド音楽も聞きたくなくて、なぜかピアノの音が妙に心に染みて、しばらくはぼーっとしながらピアノ曲ばかり聴いていた。あんなに移動を続けていたインドの旅が遠い夢ののよう。
朝はゆるいアーサナをちょっとづつ続けている。太陽礼拝とか疲れるやつは最初は全然やりたくない。座るポーズ中心。足首を回して、股間節を開く、胸を開く。その日やりたいと思うアーサナしかやらない。そのうち徐々に肩立ちのポーズをやろうとか、チャクラアーサナとか、キツイポーズをやる気になってくる。3日前にふとシルシャアーサナがやりたくなって、ひさびさにはじめた。少しづつ、身体がエネルギーを取り戻しているのを感じはじめた。でも、焦らない。
この家に越してきた今も、あまり何もする気が起きずに、人の好意に甘え続けている。前にも書いたが、共有の台所にはいつも玄米ご飯が炊かれていて、何かしらの食材があり、誰かが何かを作っていてくれたりして、それをずっとありがたく受け取っている。何だかよく分からないけど、自分には今、受け取り続けるという事が大切な気がしたのだ。すまないとか、悪いな、何もできない自分はダメだなんて思わずに、ただただありがたく受け取る。
ある日、台所に共有の玄米ご飯がなくなったので、炊いてみることにした。実はご飯を炊くのも一年3ヶ月ぶりだった。玄米なんかひさびさに炊くし、ちゃんと炊けるかなーとドキドキした。五合のお米を圧力釜に入れて、無事に炊けたご飯を炊飯器に移してよくかき混ぜる。その時身体の奥からエネルギーがぶわっと湧き上がってくるのを感じた。
ご飯を炊こうと思えるようになっただけでも、大したことのように感じたし、ここに、この五合のご飯を食べてくれる人がいるんだ、ってことが嬉しかったのだ。
心の風景が変わったと前回書いたけど、ここに来てから、与えることと、受け取ることに対する、新しい感性が自分の中に育って来つつあるのに驚く。
まずは丸ごと受け取るということは予想以上に難しい、ということと。与えるということもまた難しく、だからしっかり受け取って貰った時は本当に嬉しいということ。
インドを旅している間は、基本的に誰かが何かをしてくれた。ご飯は作ってくれる人がいたし、掃除も頼めばしてくれる。ひとりの旅は本当に楽で気ままにだった。でも、ジョシーのところを訪ねている時だけは、私は彼の世話をし続けた。一日中目が離せない彼の相手をするのは、本当に大変で、精神的にもヘトヘトになるのだけど、多分それでエネルギーのバランスを取っていたのだと改めて思う。
以前、彼が今よりもずっと元気だった時、私はそれに不平を漏らした。すると彼は言った。「私の身体の世話をする以上に価値のあることが、あなたにあると思うの?」その時私は「世話してあげている」という気持ちが全くないわけではなかったから、その答えに呆れた。
でも、彼の言葉は本当だった。
受け取ってもらえる人がいる、それは素晴らしい事だ。与えることが愛だというなら、受け取ってもらえる事は愛の成就だ。
だからしっかり受け取るということは、想像以上のポテンシャルを秘めている。
むしろ与えることに先立つのは、受け取ることなのでないかとさえ思う。なぜなら私たちの生は受け取ることから始まるからだ。
どれだけの物を日々私たちは受け取っているか。それに繊細になれたら、与えることの一歩が始まる。もしも受け取ることに罪悪感や借りを感じてしまうなら、向けられた愛の成就を自ら閉ざしてしまうのだ。道に咲く野花ですら、何かを与えようとしてくれている。
受け取ること、受け取ってもらえる事、それだけあれば人生は、本当は充分なのかもしれないと思う。それが愛の円環なのだと。
忘れっぽい私へ

日本に帰ってきて、風景がガラリと変わった。目に見える風景だけではなく、心の風景も。あれ、今までとはすっごく違った所に来ちゃった感じ。
ここ数年インドと日本を行ったり来たりしていたけど、その間も心の風景は地続きだった、なんだかそれが根本から変わったのだ。何がどう変わったのかは、まだよく分からない。でも、この新緑とともに、新しい何かが育っていってくれるといいな。
旅のノートをパラパラ眺めていたら、こんな言葉が出てきた。時々、自分の言葉じゃないようなものが、自分の中に沸き起こってくる、それは表層の自分よりももっと知恵のある私で、いつも自分を励ましてくれる。
「忘れっぽい私へ」
忘れっぽい私、どうか忘れないで、忘れたら思い出して欲しい
私に足りないものははじめから、何もないって
もしも私が、何か足りないと感じたとしても
それを埋めることができるのは、自分しかいないのだと
だから、そもそも必要なものは、全て私の中にある
今、この瞬間も
完璧さは、この空間の中に満ちている
長い旅の中で、私が気づいたことを、思い出して欲しい
足りないものなんて、はじめからなかった
だからこれからも、足りなくなることはない
何かが、私の足りなさを埋めてくれるのじゃない
私がただ、気がつけばいいだけ
足りないと感じているのは、幻想だということを
私自身はすでに満たされた存在だということを
何の不足も余分もなく
ただ、完璧なのだ
どうかどうか、それを忘れないで
そして思い出して欲しい
私はいつも満ちていると
人生はゲストハウス

昨日も激しい春の嵐で、一晩中強い風と雨がごうごう部屋の壁を打ち付けていた。時々強風がやってくると微かに揺れる。大丈夫かなーこの家、でも雨漏りしないからインドの家より立派かも。
昼過ぎに母屋の玄関を開けると、見知らぬ靴が置いてあった。誰か来客がいるらしい。台所で女性の方が片付けものをしていた。引っ越しするので要らない調味料などを持って来たという。コーヒーを淹れてシュークリームをご馳走になり、しばし歓談。日本で暮らしているのに、予想外に出会いが起こるのは、まるで旅の続きのようだ。
先日は本当に家がない、という男性が泊まりに来た。ずっと友人の家などを転々としているとか。何故そうなったかは聞けなかった。一度偶然知り合った人に、使っていない部屋に好きに泊まっていいと鍵を渡された。でも、しばらくすると居心地が悪くなって出てしまったという。根っからのジプシー気質の人っているんだな、と思いつつ。あ、人のこと言えないじゃん私、とちょっとドキドキした。
母屋の扉を開くたびに、誰がいるか全く予想がつかないという、スリリングさを味わう。そしてルーミーの「ゲストハウス」という詩を思い出す。
それはこんな詩だ。
「ゲストハウス」
人間という存在は、みなゲストハウス
毎朝、新しい客がやって来る
喜び、憂鬱、卑しさ、そして一瞬の気づきも
思いがけない訪問者としてやって来る
訪れるものすべてを歓迎し、もてなしなさい
たとえ、それが悲しみの一団だとしても
できるかぎり立派なもてなしをしなさい
たとえ、それが家具のない家を荒々しく駆け抜けたとしても
もしかすると訪問者は、あなたの気分を一新し
新しい喜びが入って来られるようにしているのかもしれない
暗い気持ちや、ごまかし、ときには悪意がやって来ても
扉のところで笑いながら出迎え、中へと招き入れなさい
どんなものがやって来ても、感謝しなさい
どれも、はるか彼方から案内人として
あなたの人生へと、送られてきたのだから
この詩は「人生という名の手紙」という本に掲載されて有名になったらしい。英訳の解釈については賛否両論あるようだが、それでもとても心に刺さる内容だ。
私たちの心はまさに大きなスペース、それを開かれたゲストハウスのように生きるのか、閉ざされた小さな牢屋のごとく生きるのか、開くのも閉ざすのも、選択するのは自分自身なのだ。玄関を開けて見知らぬ靴を見るたびに「さあ、どうする?」と神様から球を投げかけられているように感じる。
明日は誰が来るのかな。
不思議の棲家

新しい住まいが決まり、先週末から住み始めた。場所は横浜市港北区、実は学生の頃この付近に住んでいたことがあり、数えたら実に30年ぶりだった。
その家は一応シェア・ハウスなのだが、普通とはかなり違う。築60年の古い日本家屋で、一階の母屋部分は広い共有部分になっていて、その周りに住居棟がある。
通常のシェアハウスは一件の家をみんなで使う形になるが、ここは各部屋が完全に独立していて、母屋の二階にある私の部屋も入り口は別だし、部屋には小さいながらキッチンもトイレもある。お風呂だけは母屋のを共有で使う。ここに決めた大きな理由はキッチンとトイレがついていることと、占有面積が広かったこと。毎朝のヨガの浄化法で共有トイレを使うのはやりにくいなって思っていたから。しかし実際に住み始めると、本当に古い家で、手もあまり加えていないから、ガタピシ。その代わり好きにDIYしていいと言われた。
何よりこの家が普通じゃないのは、主宰者の意向で共有部分は居住者以外にもオープンになっていて、誰でもフリーで使うことができること。泊まるのも可。キッチンには主宰者の在り方に賛同した、全国の方々から送られて来た食品が詰まっていて、ご自由にお使いくださいと書かれていて、しかも玄米ご飯が常に炊かれている。シェア・カーもシェア自転車もある。
この家に越して来た時、二十代のシェアメイトの女性から「ここはルールがないのがルールなんです。」と言われた。「特に決まりはありません。みんなでご飯を食べたい時は食べてもいいし、食べたくない時は引きこもればいいし、共有スペースにいても話したくなかったら話さなくてもいいし、みんなの分のおかずを作りたくなったら作ってもいいし、作りたくない日は自分の分だけ作ればいいんです。」とのこと。
共有キッチンは基本的にフリースペースなので、ここに置いてあるものは、好きに使っていいことになっている。冷蔵庫に入れてあるものも、使うのは自由。もちろん自分のものを入れておけば好きに食べられてしまう、かもしれない。どうしても自分だけのものにしておきたいものだけ、自室に持っていく。
戸棚を開けると各種調味料や乾物類、お菓子、お茶などが並んでいた。インドから帰って来て、貯金はすっからかんだし、荷物はトランクルームに預けていたので、当然調味料や食品のストックなど全くなかったので、この状況はありがたすぎた。
お金はないのに、治療が終わるまではフル稼働で働くのは難しい。という大変な状況にもかかわらず、戸棚からコーヒーを取り出して、誰かが持って来てくださったケーキを頬張る。今この瞬間だけ切り取るなら私は十分に豊かだ。
一年ちょっとに渡る、移動生活の果てに、こんな場所に落ち着くことになるとは、人生は面白いなあと思う。ここに出会ったのは本当に偶然で、シェアハウスの総合サイトであるひつじ不動産で見つけたのだ。見出しの「共有スペースは非居住者の方もご利用になります。」と書かれていて面食らったのだが、古い日本家屋の風情が妙に心惹かれたし、主宰者の意思にも新しい時代の風の感じた。
そんな風に書くと賑やかそうな場所と思われるかもしれないが、居住者は多くなく、主宰者は多忙でよく外に出て行ってしまうので、イベントでもない限り家はしんとしている。住宅街の中を歩き、細い坂を登った奥まった場所にあって、裏手は雑木林、日が暮れるとあたりは暗く静まりかえる。夜に一人で広い共有キッチンで料理してると、ちょっと怖い。だって突然誰か来たって、拒めないわけだよ。
かなりチャレンジングだよなー、と思う。
正直まだ慣れてなくて、古い家は夜寒くて心もとない。引っ越したとたんなぜかimacもipadも、オイルヒーター(だから寒いのに暖房がない)も壊れてしまい、おまけに自分の体も故障中で、環境が大きく変りつつあるのを実感している。高台にあるせいか風も強く、着いた日の夜は春の嵐。吹きすさぶ雨風が屋根を打ち付け、隙間風で障子がバタバタ音を立てていた。でも、朝になったらキッチンの窓からは林の木々が見え、うぐいすの声が聞こえてきた。
数日暮らしただけでも、けっこう色んなことに向き合わされる。例えば食材を買った時、これを自室に持ちこむか、共有の冷蔵庫に入れるか一瞬考える。何を自分は「自分だけのもの」にしておきたいのか、ということを。そしてジョシーがよく言っていた事を思い出した。「要らないから人にあげるんじゃない、自分が好きなものだからシェアしたいんだ。」
まだまだ色々試行錯誤のようだけど、主宰者のチャレンジングな試みが花開いていう様子を、見守っていく...のではなくここに偶然でもやって来た以上は、ある程度は関わっていくことになるんだろう。
昨日、晴れた夕方に西側の窓を開けると、遠くに富士山がうっすら見えた。富士山の見える家に住んだのは15年前マンションの11階の部屋に住んで以来のことだ。まさか、木造家屋の二階の窓から見えるなんて思いもよらなかった。木々に囲まれ、ウグイスが聞こえ、富士山が見えるとは、なかなか素敵な場所ではないか。今は改良の余地は多々あるが、ゆっくり手を加えながら、自分に住みよい空間を作っていこう。
落ち着いたらここでヨガのクラスでもやろうと思っている。その時はぜひ、気軽に遊びに来てくださいね!あと、DIY得意な人、お知恵拝借&お手伝い大歓迎!
偉大なるプラクティス

帰国して、もうすぐ2週間になります。
日本の地に着地して、少しづつ生活を整えている最中。
一年3ヶ月日本の暮らしを放っておいたツケを確実に払っていて、パスワードの密林の中で迷子になったり、格安SIMカードのチョイスの多さにめまいがし、今日はずっと契約してた携帯番号を解約しに行ったら、不条理な解約手数料に泣けて来た。来年の10月にならないと無料で解約できないって何なんでしょうー、しかも実家の父のためにと、当時何も損はありませんからと勧められた、子供用の子機みたいな携帯を契約しっぱなしにしてたのだが、解約すると両方に手数料がかかるとか、合わせて約二万円。うわーこの入りような時期になんと無駄な出費!
いやーインドのリチャージ制が懐かしいわ。
久々の日本の暮らしは、気のせいかより複雑さを増したよう。そうそう、肝心の目の治療だって人気の医者は3~6ヶ月待ちというではないか!
でも、こんな時こそ自分にも他人にも辛抱強さが必要なんだな。
昨日たまたまyou tube で、去年ダラムサラでお目にかかった、イギリス人のチベット仏教の尼僧、テンジン・パルモさんの講和を聴いていた。それは西洋人の仏教徒に向けた、仏教のプラクティスをどう日常に生かすかというテーマのもの。それは仏教という枠組みを超えたユニヴァーサルな智慧に満ちた、素晴らしいお話だった。彼女の講話は非常に聞き取りやすい英語で、話も明快で歯切れよく、すすっと心に入ってくる。
最初の部分をちょっと紹介してみると…
私たちが通常スピリチュアルなプラクティスだと認識しているのは、瞑想したり、経典を学んだり、講義を聞いたりすることと考えがち。そしてそこから外に出ると家族や仕事、煩雑な社会生活などの、サンサーラ・アクティビティが待っている、と。でもそれは大きな誤解だ。
ブッダが説いた六波羅蜜の中で、瞑想は六つの中のたったひとつでしかない、特に最初の三つは、一人で修行するのではなく、他者との関わりの中で培われていくもの。ちなみ六波羅蜜とは以下に六つ。仏教用語だと抹香臭い感じがしちゃうけど、逆に英語の方が分かりやすい。
1布施(ふせ)……generosity 親切
2持戒(じかい)….ethics 道徳
3忍辱(にんにく)……patience 忍耐
4精進(しょうじん)…effort 努力
5禅定(ぜんじょう)……meditation 瞑想
6智慧(ちえ)……wisdom 智慧
三つ目の 忍耐は特にスピリチュアルな成長には欠かせない。ブッダは忍耐こそが最も偉大なタパシヤ(苦行)だと述べている。忍耐とは例え快適でない環境にいたとしても、心の平静さを失わないこと。あなたの周りの人々は常にあなたを試している。もし、世界の全ての人々が自分に対して優しくラブリーであったら、そういう人たちを愛するのは簡単だし、その中であなたは何も学ばない。
けれどあなたに対して不機嫌な人を愛することこそ、チャレンジになる。彼らこそが、あなたのボタンを押す、スピリチュアル・フレンドだ。なぜなら、あなたはその事を通してものすごく成長することができるから。
同じ環境でも人によってハッピーにもアンハッピーにもなりうる。それは全て私たちの「心」がなせる技。だからこそ、日常生活を通して私たちは心を変容させられるのだ。
もし、あなたが一日に数時間瞑想していても、それ以外の時間、心がいつもざわめき、絶えず無駄な事を喋り、過去を後悔し、未来を憂いていたなら永遠に変容することはできない。そして人との関わりはあなたを変容させ、純化させる事ができる。
ハートを開きなさい。頭だけの理解ではなく、学んだことをハートに下ろすのです。ハートが開かなければ真の変容はないし、その知識があなたの中で輝くこともない。だからこそ、私たちには家族、子供、パートナー、日々の生活が必要なのです。それがプラクティスの場なのです。
そして次にはアウェアネスの大切さに続くのですが、長くなるのでまた今度。本当にクリアで深い内容の講話なので全部紹介したいくらい。1時間半ありますが、下に貼り付けたので興味のある方は是非!
ええと、だから何が言いたかったというと。今日携帯の解約金のことで、かなりイラっとして、お姉さんに怒りたくなったのですが…
その時に、ふと テンジン・パルモさんに「Patience!」と言われたようで、「おおおっと…」と我に返って一呼吸。
「そうだよね、別にこのお姉さんは雇われてるだけで自分の仕事してるだけだもんね。私だけでなく、きっと文句を言う人沢山いるだろうなー。仕方ない、お金はもう払うしかない訳だし、無駄な出費とはたまにあるのだよ。」
一旦荒げた声を身体に収めて、にっこり笑って「ありがとう」と店を出る。
そして帰り道。今度は道に迷ってしまいました。(今眼が悪いのですぐ方向を見失うのです。)「げ、反対方向きちゃったよ。」とため息つきながら見上げると、それは美しい椿の花。
私にとって、この新しい生活に馴染むのは大きなプラクティスになりそうです。
おわり、そしてはじまり

ただ今デリー
あと2日寝たら帰国の便に乗る。まだ実感がない。
ちょっとメランコリー…
でも、そんな事言ってられないほど、帰った瞬間に押し寄せる雑事の数々を考えると頭が痛い。
ともあれ心配は頭の前の方に置いて、目を閉じて後ろに下がる。透明な静寂の広がる場所に
錨を下ろす。
心の中は半分日本だけど、窓の外はまだインドだ。
人々の話し声、車の音、鳥の声…
空は広大で、太陽は今日も世界に降り注ぐ、私たちがどんな状態であろうとなかろうと。
世界は過分も不足もなく、今この瞬間の中にきっちり満ちている。
その満たされた空間で、静かに呼吸する。
OK、大丈夫。
帰る時、先生に言われた。
アーサナの勉強が終わったら、次はヨガを勉強する時間だよ。
あなたが世界の一部になったら、あなたはヨギだ。
心配に巻き込まれている時、あなたと世界はバラバラだ。
あなたは世界の一部なんだよ。
信頼しなさい、そして来るものを受け取りなさい。損得を考えずに、必要なことをやりなさい。
今まで学んだ智慧を使って生きて下さい。それがこれからの、あなたのプラクティスだよ。
ふー、全くその通りです。それに比べたら、マットの上のヨガは簡単だ。
このマットの上から一歩出て、直に大地の上に立って、人生を踏み出していく。
多分明日も明後日もきっと1ヶ月後も、人生は何とかなっているはず。
きっと死ぬまで、人生は何とかなり続ける。
それを信頼して
ランディング

一週間で切り上げる予定だった Ahimsa Garden Retreat の滞在が気がつくと3週間以上になっていて、27日にようやくインド最南端のカンニャクマリに戻ってきた。
Ahimsa にいる間、一週間マルマ療法のトリートメントを受け、外出したのは数回くらい。ほとんど宿で身体を休めていた。この一年ちょっとの旅の間でのべで換算すると1番長く滞在していたのがここで、インドの宿のなかで1番ホッとできる場所。
傍目にはゴロゴロしていただけだが、内面的には色々あって、ようやく旅を終わりにしようと決心できた。でもスパッと決心できたわけではなく、グダグダ往生際悪く、何とかインド滞在を引き延ばそうと目論んでいたりしたのだが。
本当は帰らなきゃってことは、年末あたりから感じてはいた。ずっと歯ぐきが腫れていたし、左目の視力が落ちてるのも気がついていた。朝目覚めると、心の中で帰ろうよ、と声がする度に嫌だ!と打ち消していた。
ちょうどその頃私はアルモラに居て、隣のに部屋泊まっているアンというアイルランド人の女性と親しくなった。
彼女は75歳で、アナディのリトリートに参加するために、自分のアパートを人に貸して、一年半の予定で旅をしていた。言ってみれば私と同じ境遇。でも75歳でそれを実行するなんて、なんというタフさ!すでに一年ちょっとの間で彼のリトリートに4回も参加していて、次の40日リトリートが終わったら帰国する予定とのことだった。
「だって、私には時間がないのよ。」と彼女は笑いながら言った。
ところがある朝食堂へ行くと、彼女は尋常ではない様子で、パソコンを打っている。聞くと以前手術したヘルニアが再発したので、至急帰国することにした、と。近所の医者で検査を予約し、飛行機の日程を変え、リトリート代の返金を交渉し、という雑事を一日やり終え、あっという間に5日後の帰国を決めてしまった。
しかも、人に貸していた部屋は借主が急に引越を2ヶ月早めたばかりで、空いているのだそう。「最初は2ヶ月分の家賃収入がなくなってがっかりしたんだけどね。」「正直言って、ぜんぜん落ち込んでないの。むしろ早く帰れて嬉しいのよ。」
結局それが彼女の帰る時だったんだろう。
それを見ていた私は、帰るべき時が来たら自然とそうなるんだろうな、と思った。ふと心の中で声が聞こえた。
「帰る時は身体が教えてくれる。」
そんな出来事があったというのに、私はアンのように素早く決断は出来ず、宿のオーナーのデイシーにも、マルマ療法のグルッカルにも、今は家に帰りなさいとさんざ言われて、駄目押しでインド占星術の鑑定まで受け、ようやく決心したのだ。でも決定打はやっぱり身体の声、視界がクリアじゃないと、旅も楽しめないし、何より絵も描けないし、こうして文章を書いていてもすぐ疲れる。
長旅をしていると、どうやっていつランディングをするかは、結構大きなテーマになる。期限があれば別だけど、自由であればあるほど、自分自身がしっかり納得できない限り、なかなか旅は終われない。インドのように安いお金でそこそこ暮らせる国では特に。
でも一度決心したら、やっぱりここは帰るしかないでしょう、と改めてクリアに見えて来た。何をグズグズしてたんだろう。そして帰ると決めたら、やることが山のようにある。まず、住まいを探さなくちゃだし、目の治療をする病院も、仕事も、次の渡航の為の準備も。でも、今回みたいな長旅をすることは、少なくともしばらくないと思う。やりきったという感じは十分ある。
身体に帰るよーって腕引っ張られなきゃ、帰れないなんて、つくづく往生際悪い。
3月21日の便で帰国、まずはシェアハウスに居を落ち付けようと思ってるので、良い情報求む!です。よろしくお願いします。
写真はマルマトリートメントのセラピストたち。可愛い力持ち、マルマガールズ!
星は何でも知っている?!

私の過去ログの中で、大分前の記事にもかかわらず、いつも人気ランキング上位に上がってくるのは「人生の健康相談」というインド占星術の記事。あれは始めてインド占星術の鑑定を受けた時の事を書きました。そして以後も困った時には鑑定をお願いしてきました。
今日久しぶりに鑑定を受けました。お願いしたのは吉野まゆさん、彼女の鑑定は二回目です。まゆさんは最近カフェグローブに業界初のインド占星術による星占いコーナーを担当しています。
前回彼女にお願いしたのは、ちょうど荷物を片付けてインドに長期滞在することを計画していた時、そして今回はそれをどう決着させ、次に向かうかというタイミングでした。
ただ今人生もろもろ岐路に立っており、これから決断する事が、今後の人生にも深く関わってきそうな予感。ぐるぐる考え過ぎて自分一人じゃお手上げ、全く整理がつかない!という時はインド占星術は大きな味方です。
過去ログでも書いていますが、インド占星術の大きな特色のひとつはダシャーという惑星のサイクルによって運気を見ていくこと。ダシャーは3レイヤーあって
最大7~20年周期のマハーダシャー、数年周期のアンタルダシャー、数ヶ月周期のサブアンタルダシャーの組み合わせで、大まかな人生予測をする事ができます。世の中には運気のサイクルを見ていく占いは沢山ありますが、生年月日、生まれた場所、出生時刻によって精密に計算されるので、オーダーメイド度はかなり高いです。出生時刻が数分違うだけでも、人生予測は変わります。
このダシャー表を見るだけでも、今が動きやすい時期か、スタックしがちな時期か、攻めに入った方がいいか、落ち着いて積み上げていく時期かが、だいたい分かるので、人生設計にはかなり有効。プロの占星術師はハウスや惑星同士の角度やエネルギーの流れで、具体的にどんな事が起こりやすいか、何をするのに向いているかを、読み込んでいく。私も大きな決断をするときは、このダシャー表を参考にするけど、たとえ参考にしていなくても、後で見ると人生の節目節目が、ダシャーの変わり目にリンクしているのが不思議です。
今は月の満ち欠けを意識して暮らしている人が多いけど、それを意識し始めると、物事のタイミングが自然と月のサイクルにリンクしていく、ちょうどそんな感じです。
彼女に相談したおかげで大分整理がつきました。物事がクリアーに見えている時は占いは必要ありません。見えていない時は、相反した思い絡め取られて、自分の意思が見えなくなっている。やりたいけど勇気がない、本当はAがやりたいけど、Bのほうが社会的安定しているとか。何でもやりたい事が正しいわけでもない。やりたくないけど、絶対的に必要なことだってある。
究極的には答えはみんな自分自身が知っている。今何が必要か。でも、その事に自分の表層意識がOKを出せないと迷うし、迷ってる時は色んな人の意見に振り回されるから、ますます迷路に入って、単純なことすら見えなくなってしまいます。(まさに今そんな感じでした。)
まゆさんは、常識にとらわれずに、そんな私の微妙な心の機微までキャッチしてくれて、ポンと言葉にしてくださったので、「ええ、まさにそうなんです!」という感じで目の前が大分明るくなりました。
インドにいるんだから、現地の占星術師に頼めばいいって話もあるけど、こうした繊細なやり取りは、インド人とじゃ無理ですね。
本当に優れた占い師さんや、カウンセラーさんって、優れた鏡のような存在だと思う。自分自身の見えない部分、見えないふりをしてる部分をクリアにしてくれる。言ってみればチャート表は人生のレントゲン写真みたいなもの。星は何でも知っている、でもそれは私自身の魂が知っていることでもある。
星の動きに沿って、人生が流れていくのか、自分が決めた人生の青写真が星に現れているだけなのか。いずれにせよ、星の運行がこんなに人生に作用してるって、本当に神秘です。
まゆさん、また困った時にはよろしくお願いします!
星は何でも知っている?!

私の過去ログの中で、大分前の記事にもかかわらず、いつも人気ランキング上位に上がってくるのは「人生の健康相談」というインド占星術の記事。あれは始めてインド占星術の鑑定を受けた時の事を書きました。そして以後も困った時には鑑定をお願いしてきました。
今日久しぶりに鑑定を受けました。お願いしたのは吉野まゆさん、彼女の鑑定は二回目です。まゆさんは最近カフェグローブに業界初のインド占星術による星占いコーナーを担当しています。
前回彼女にお願いしたのは、ちょうど荷物を片付けてインドに長期滞在することを計画していた時、そして今回はそれをどう決着させ、次に向かうかというタイミングでした。
ただ今人生もろもろ岐路に立っており、これから決断する事が、今後の人生にも深く関わってきそうな予感。ぐるぐる考え過ぎて自分一人じゃお手上げ、全く整理がつかない!という時はインド占星術は大きな味方です。
過去ログでも書いていますが、インド占星術の大きな特色のひとつはダシャーという惑星のサイクルによって運気を見ていくこと。ダシャーは3レイヤーあって
最大7~20年周期のマハーダシャー、数年周期のアンタルダシャー、数ヶ月周期のサブアンタルダシャーの組み合わせで、大まかな人生予測をする事ができます。世の中には運気のサイクルを見ていく占いは沢山ありますが、生年月日、生まれた場所、出生時刻によって精密に計算されるので、オーダーメイド度はかなり高いです。出生時刻が数分違うだけでも、人生予測は変わります。
このダシャー表を見るだけでも、今が動きやすい時期か、スタックしがちな時期か、攻めに入った方がいいか、落ち着いて積み上げていく時期かが、だいたい分かるので、人生設計にはかなり有効。プロの占星術師はハウスや惑星同士の角度やエネルギーの流れで、具体的にどんな事が起こりやすいか、何をするのに向いているかを、読み込んでいく。私も大きな決断をするときは、このダシャー表を参考にするけど、たとえ参考にしていなくても、後で見ると人生の節目節目が、ダシャーの変わり目にリンクしているのが不思議です。
今は月の満ち欠けを意識して暮らしている人が多いけど、それを意識し始めると、物事のタイミングが自然と月のサイクルにリンクしていく、ちょうどそんな感じです。
彼女に相談したおかげで大分整理がつきました。物事がクリアーに見えている時は占いは必要ありません。見えていない時は、相反した思い絡め取られて、自分の意思が見えなくなっている。やりたいけど勇気がない、本当はAがやりたいけど、Bのほうが社会的安定しているとか。何でもやりたい事が正しいわけでもない。やりたくないけど、絶対的に必要なことだってある。
究極的には答えはみんな自分自身が知っている。今何が必要か。でも、その事に自分の表層意識がOKを出せないと迷うし、迷ってる時は色んな人の意見に振り回されるから、ますます迷路に入って、単純なことすら見えなくなってしまいます。(まさに今そんな感じでした。)
まゆさんは、常識にとらわれずに、そんな私の微妙な心の機微までキャッチしてくれて、ポンと言葉にしてくださったので、「ええ、まさにそうなんです!」という感じで目の前が大分明るくなりました。
インドにいるんだから、現地の占星術師に頼めばいいって話もあるけど、こうした繊細なやり取りは、インド人とじゃ無理ですね。
本当に優れた占い師さんや、カウンセラーさんって、優れた鏡のような存在だと思う。自分自身の見えない部分、見えないふりをしてる部分をクリアにしてくれる。言ってみればチャート表は人生のレントゲン写真みたいなもの。星は何でも知っている、でもそれは私自身の魂が知っていることでもある。
星の動きに沿って、人生が流れていくのか、自分が決めた人生の青写真が星に現れているだけなのか。いずれにせよ、星の運行がこんなに人生に作用してるって、本当に神秘です。
まゆさん、また困った時にはよろしくお願いします!
Slowly Slowly

マルマ療法3日目、ここの治療院はデトックス系のパンチャカルマはやってなくて、もっぱらマッサージ系メイン。アビヤンガ、キリ、ピリチル、シロダーラあたりが、主なメニュー。でも、セラピストの質がいい。施術中は余計なおしゃべりしないし、圧もしっかりかけてくれて、かなりゴシゴシやられます。聞くところによると、女性のセラピストもカラリパヤットも学んでいるから、みんな力があるんだとか。ベテランのセラピストは確かに武術を嗜んでる感じの凛とした迫力がある。
内側からデトックスするんじゃなくて、マルマというツボを刺激しながら、オイルを浸透させ、身体の深部まで緩めていくことで、神経を休ませて、治癒力を高めていく感じ。私は特にキリというハーブボールの温熱療法が気に入ってて、暖かいハーブボールで身体中パンパン叩かれると、眠っていた身体の隅々にエナジーが通るようで、スッキリ元気になる。
以前別のアーユルヴェーダ医院でパンチャカルマを受けた時は、効果がぶつかり合うので、治療期間中はヨガの浄化法は休んでと言われたけど、ここのグルッカルは全然OKと言うので、ヨガの浄化法も同時に行っている。
ジョシーには目の調子が悪いなら、トラータカ、ジャラーネーティー、クンジャラをやりなさいアドヴァイスされ、デイシーにはアーサナは激しいのは避けて、プラーナヤーマとシャバアーサナを増やしなさい、ただしカパラバティのような、気がアップするようなのは逆効果、アヌローマ・ヴィローマ、シーラターリなどの鎮静作用があるものを、と言われた。
確かに、ここんとこ調子に乗っていつも通りアーサナを行うと、後で気持ち悪くなって、しまったと思う時があった。だから本当に刺激少なめのアーサナだけをさらっと行って、浄化法やプラーナヤーマの時間をしっかりと取っている。元気な時は何をがしがしやっても平気だけど、調子が悪い時こそ、各アーサナ、プラーナヤーマ、浄化法がそれぞれ身体に繊細に作用しているのに気がつく。ヨガの智慧は改めて深い。ちなみに今回は、ジャラーネーティーがすこぶる気持ちよく感じられる。
視力が戻って来たわけではないが、腫れぼったい感じは抜けてきた。本もすこしづつ長く読めるようになって来た。
昨日ipadの画面を見たら、随分暗く感じた。何でこんなに暗いんだろうと思ったら。ずっと眩しく感じていたので、明るさを最小限にしていたのだった。それでも、ひどい時はさらにサングラスをして、メールを打っていた。その頃は蛍光灯も付けられなくて、暗闇で過ごしていたのだ。と言うことは多少は良くなったということか。まあ、こうしてブログをアップする気力が出て来たんだもんね。
でもまだ、本を読みすぎると頭痛がするし、インドの喧騒に一人で出ていく気力はない。
早く次の目的地に向かいたいけど、今はともかくスローリィ、スローリィ
旅とヨガとイラストレーション。世界と身体と脳内をめぐる旅。
by 若山ゆりこ
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