ヴィパッサナー瞑想日記 その3:Day 4~5

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 神経が高ぶってしまうのか、結局夜はあまり熟睡できませんでした。しかし4時になると不思議とパチッと目が醒めます。飛び起きて外に出ると東の空がうっすらと赤くなり、美しい暁の空が広がっています。

 コースに参加する前は、早朝4時に起きて、果たして瞑想なんかできるものか?と心配していたものの、始まってみると、夜明けのこの時間がもっとも気持よく瞑想できる時間だと気が付きました。シャワールームも朝一番は空いているので、起き抜けに熱いシャワーを浴びて瞑想ホールへ向かうという、生活のリズムが出来てきました。

 夜明けはスピリチュアルな時間だとインドでも言われていますが、人生ではじめて、こんな時間に坐って、しみじみとそれを実感しました。朝の空気は、ぴりりと冷たく、精妙なヴァイヴレーションに満ちていました。聞こえてくる鳥の声、木々のざわめきも、時間帯によってその色を変えるのです。早朝に世界が目覚める音はとても澄み渡っていて、素晴らしい広がりを感じるのでした。車の音も、誰の声もありません。
 そして起き抜けの頭はまだ目覚めきってないせいか、思考が活発に働かずに、とても集中しやすいのでした。
 逆に早朝の瞑想が終わって朝食後の時間は睡魔の襲うキツイ時間。お腹も満たされ身体も温まって、つい気が緩んできます。

 3日半に渡る「アーナパーナ瞑想」が終わって、ここからいよいよ「ヴィパッサナー瞑想」の指導に入ります。それは身体の頭から爪先までを意識をくまなく動かしながら、そこで「いまここに、あるがまま」に起こってくる感覚を、どんな事が起こっても、ただただ平静で明晰な心で、客観的に観察するというものでした。常に「全ては変化している」という不変の真理、「無常(アニッチャー)」を感じながら。

 指導では、まずは身体の各部分の感覚を、順番に観察していくようにと言われます。そこで、こわばっている部分、あまり何も感じられない部分があれば、そこに少しとどまってみます。それでも、何も感じなければ、長くかかわらずに、また次の部位に観察を移します。何にせよ、何を感じようとも、感じなかろうとも、平静な心を失わないようにと、しつこいほどに繰り返されます。

 前半の3日半「アーナパーナ」の練習中は身体が痛かったら静かに動かしても良い、と言われていました。
 ところが、「ヴィパッサナー瞑想」が始まったその日から、毎日3回、各1時間のグループ瞑想の時間には、決して身体を動かさないようにと言い渡されます。1時間ぐらい、調子が良ければ何とかなりますが、連続で瞑想して身体のあちこちが痛いので、全く自信がありません。
 それに動かすなと言われると、急に心配になってきます。

 果たして、嵐がやってきました。 
「ぼちぼち1時間じゃないの?...まだかなあ。ああ、おしりが痛くなってきた、痛みさえも平静に観察すれば消えてゆくと言うけど、観察しても痛みなんか全然消えない。でも、足をちょこっと動かせればこの痛みは消えてゆくんだどなあ...ああ動かしたい!....一体あと何分くらいだろう...もう我慢ができない。」などなど...1時間が終わりそうになる頃には、雑念の突風が吹き荒れて瞑想どころではありません。

 しかし、格闘しているのはきっと私だけではないのでしょう。辺りからはゴクリゴクリとつばを飲み込む音や、深く呼吸をする音が、張り詰めた気と共に、耳に入ってきます。頭上で1日鳴いている、うぐいすの「ホ〜、ホケキョ」という声が、時折その緊迫した空気の中を横切っていきます。

 グループ瞑想の終わる合図はゴエンカ氏の「アニッチャ〜(無常)...」という言葉から始まるチャンティングの声。「やっと終わった〜!」という安堵感で、みんなぐったり脱力の様子。
 しかし、休憩を挟んで再びゴエンカ氏が繰り返します。
 「トラ〜イ・アゲ〜ィン、トラ〜イ・アゲ〜ィン...さあ、もう一度やってみなさい。」

 身体の中の感覚を感じられる部分は良いのですが、こわばっている部分、感覚が鈍い部分、そして痛みのある部分に意識を向けていると、それに誘発されて、過去の嫌な記憶や、ネガティブな感情が、ぷかりぷかりと浮き上がってきました。普段は日常の雑事に流されて忘れてしまうそれは、大きな存在になって、瞑想中の心を揺り動かします。

 ぼちぼち4日目が終わろうというのに、何かが起こるどころか、心のダークサイドに飲み込まれて、すっかり暗くなってしまいました。それに「何かが起こる」という期待を抱えて坐っていると、何にも起こらないことにがっかりし、同時に腹が立ってきます。この期待、すなわち「渇望」も、瞑想中の大きな厄介者でした。

 たまたま集中して座れれば、「ああいい瞑想だった!次はさらに気持ちよく座りたいなあ」と思い、身体が痛ければ「もう耐えられない!」と毒づき、嫌な感情が上がってくるとそれに囚われてどんよりしてしまう。ちっとも平静な観察など出来ません。

 そんなアップダウンの日々がしばらく続き、ある時にふと閃きました。ゴエンカ氏の言う、「平静な心で観察せよ」とは平静な心で瞑想できれば、もちろん良いことですが、「平静な心で瞑想できない自分」をも平静な心で観察せよという事なのかもしれない、と。
 
 「ああ〜、そっか〜...そうなのかも...」
何かが私の頬をパチンと叩いて、急に肩の力が抜けた気がしました。
 だから、あんなにも指導の中で「何があっても、何が起こっても、一番大切なのは平静で客観的に観察すること」だと何度も何度も繰り返しているのでしょう。

 ブッダは全ての心の反応は、常に身体の感覚を通して起こると説きました。そしてその反応によって引き起こされる執着や渇望、嫌悪が「サンカーラ(心の反応)」として蓄えられ、苦しみとなり、心の濁りを蓄積してゆくと。

 身体が痛くて苦しかろうと、例え瞑想中に光に包まれたとしても、ネガティブな感情に囚われて落ち込んでしまおうとも、突き詰めれば全て身体の感覚にすぎません。そして必ず、それは「変化」してゆきます。
 あるがままの現実の中で、ただ物事が起こってる。本当は優劣などなく、優劣をつけるのは私達の心です。
 何が起こるかではなく、どう反応するか。起こった出来事ではなく、それに一つ一つ囚われてしまうこと。心の反応こそが、「サンカーラ」というゴミになって意識の深層に積もってゆくのです。

 インドの聖典「バガヴァッド・ギーター」の中の好きな一節を思い出しました。
「あなたの職務は行為そのものにある。
決してその結果にはない。
行為の結果を動機としてはいけない。
...執着を捨て、成功と不成功を平等のものと見て
ヨーガに立脚してもろもろの行為とせよ。
ヨーガは平等の境地であると言われる。」

根っこのところは同じことを言っている気がします。

結局の所、今はただただ坐り続けるだけなのです。
例え何が起ころうとも。何も起こらなくとも。(つづく)
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by umiyuri21 | 2015-05-27 21:51 | ヨガ


旅とヨガとイラストレーション。世界と身体と脳内をめぐる旅。


by 若山ゆりこ

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