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心の彼方で「私」と出会う 続 :ラマナ・マハルシとラマナアシュラム

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ラマナ・マハルシとラマナアシュラム


南インドの聖地、ティルバンナーマライ。

シヴァ神の御神体そのものと呼ばれるアルナーチャラ山とその山を一生離れず愛し続けた、近代インド最大の聖者ラマナ・マハルシのアシュラムがある町。

ここが私の探求の出発点です。


とはいえ、別に最初から探求するつもりでインドへ行った訳ではありません。

何度も書いていますが、2012年にヨガの師であるジョシーと出会ったことがきっかけで、ケーララの村に住み込んでハタ・ヨガを学んでいました。


ところがその頃から、津波のように人生の難題が次々と押し寄せてくるようになりました。その激動をヨガでなんとか乗り越えようと頑張っていたのですが、どうにもカバーできなくなったのでした。


たまたまケーララであるアーユルヴェーダの先生に診察をお願いした時、先生にこう言われました。

「君の身体は大丈夫だよ。むしろ問題は心の方だね。心配事っていうのは一つ解決してもまた次がやってくる、それをいちいち気にしていたらキリがないんだよ。」


その時私は毎日アーサナを実践していましたし、朝は浄化法を欠かさず、菜食も今よりずっと厳格に行なっていました。

ポジティブ・シンキングやヴィパッサナー瞑想の本などもたくさん読み、瞑想もそれなりにやっていました。


表向きはスピリチュアルな生活をしていたものの、内面は問題でいっぱいの心を抱えていたのです。身体はヨガで変えられたものの、心の本質的な部分はそのままだったのです。


アーユルヴェーダの先生は私にこう言いたかったのでしょう。

問題を解決しようと躍起になるのではなく、問題を問題としない心を作りなさい。


さて、問題を作らない心を作る。


一体どうやったらいいのだろう?




アルナーチャラ山とラマナ・アシュラムの話は、ずいぶん前に当時習っていたヨガの先生から聞いていました。

でも、行ってみようと思ったきっかけは、たまたまケーララから近かったからです。

もしも私がリシュケシュでヨガを学んでいたら、探求は全く違うものだったかもしれません。最初にこの場所に出会ったことは、私には幸運なことだと思っています。


ティルバンナーマライはケーララから列車で一晩。インドの移動としては短い方です。

その頃「ラマナ・マハリシの教え」と言う本(山尾三省が翻訳した版)を一冊だけ持っていましたが、あまりよく分かりませんでした。

ただ、それは今まで私が知っていたスピリチュアルな教えとは、かなり違ったもののように感じました。


ラマナ・マハルシの教えは、日本語で不二一元論/サンスクリット語でアドヴァイダ・ヴェーダンタ/英語でノンデュアリティ、の流れに属します。また、インドではジニャーナ・ヨガ(知識の道)に分類されます。


「ブラフマン=真我だけが宇宙の唯一の実在者であり、そのほかは全て幻にすぎない。」

この宇宙はふたつ(不二)ではなく、究極的にはひとつ(一元)、ということです。

ざっくり言えば、それにつきます。


ラマナ・マハルシの説く道は、ひたすら「真我」を探求していくものです。宇宙の唯一の実在者が「真我」なのですから、私たちの本性もまた「真我」なのです。

その探求の骨子となるのが「私は誰か?」という問いかけです。


なんて、いきなり言われたって「はあ?」って感じですよね?

この日々の雑事や心配事に追われ、争い事や軋轢が絶えず、自分のパートナーや親とさえ分かり合うことができないこの世界が、何故一つなんだと?

なぜ私たちが真我なら、これほどに欲や煩悩や恐怖や苦しみにまみれているのか?


「真我は到達しなければばらないような、どこか遠い所にあるのではない。あなたは常に「それ」なのである。ただ、あなた自身を非真我と自己同一化するという習慣を棄て去らなければならないだけである。全ての努力は、ただそのためだけにある。」

(ラマナ・マハルシ)


私たちは真我でないものに、自分を自己同一化している。

真我でないもの、つまり幻。

この幻に自己同一化している状態が「エゴ」とも言えます。

自分を本当の自分ではなく、幻の自分(=エゴ)に自己同一化してるから苦しいってことなんです。

だから目を覚まして本当のことを知ればいい。

今とは違う、特別な何かになったり得たりするのではなく、ただ自己の本性を知りなさいと言うのです。


ほとんどの伝統的なスピリチュアルな教えは、厳格な修行法や浄化法、戒律などがきっちり定められています。

それをひとつひとつ、クリアしていかないと先へは進めません。


例えば、ヨーガの聖典「ヨーガ・スートラ」を読むと、そこには修行の階梯がしっかりと述べられています。

「ヨガの八支則」と呼ばれる、8つのステップがあります。

その8つのステップの中にも様々な段階があり、最終ステップの「サマーディー」においても、いくつものサマーディーを修める必要があります。


これ読んだら人は大概「こんなのできるわけない!」って思いますよ。(笑)

もちろん私もそう思いました。

しかし、当時はヨガの修練を続けていって、身体と呼吸が整い、

瞑想が深くなって心が強靭になれば、今自分が抱えている苦しみから、

逃れられるだろうと考えていました。



「真我を実現するために必要なことの全ては、静かにあること。それ以上簡単なことがあるだろうか。」


ところがラマナ・マハルシはこう言うのです。

それが私には目から鱗の一言でした。


方や山のような修行のステップが用意されており、もう一方はただ静かにして、自己の本性を知るだけでいい、と言う。

そもそも、私たちははじめから「それ」であり、到達すべきものではない、と。

これは一体どういうことだろう?


むしろこのシンプルな言葉の中に含まれた深い真意を、段階的に理解し、直接体験して行くプロセスこそが、「知識の道」であり、真我探求とも言えます。

最初にゴールを示して、そこから進んでいく

一段目から順に階段を登る、ヨガの道とは進むベクトルが逆だったのです。


ラマナも別に全ての修練を否定している訳ではありません。

それが直接真我実現へと至る道ではないが、心を強くするためには各々の心の状態に合った修練が必要だと対話集の中でもしっかり語っています。


ただ静かにしているだけでいい、という言葉にそそのかされても、

私たちを静かにさせない「心」がいつも動き回り、「真我」ではないものの夢へと誘い込まれてしまう訳で、実際はそんな甘いもんじゃなかったわけですが・・・(当たり前ですけど)


しかし、煩雑な戒律や修行法の垣根を取り払い、ダイレクトに真我への道を示す彼のシンプルな言葉は、ものすごく革命的に響きました。




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アシュラムはアルナーチャラ山の麓にあります。

ラマナとその母のサマーディーホールが隣接して並び、その奥に小さな瞑想ホール、宿泊棟、食堂、図書館、オーディトリアムも併設されています。外国人向けの宿泊棟はアシュラムの外にあって、けっこう綺麗です。

敷地内は基本的に沈黙が保たれており、孔雀やサルがウロウロしていて、美しい静謐なエネルギーに満ちています。


朝夕にプージャ(儀式)やチャンティングの時間がありますが、特に決まった規則やメソッドがある訳ではなく、ただ静かにしていればいいだけです。

お昼休みの数時間は閉まりますが、早朝4時から夜9時まで自由に出入りできます。

そのゆるい放置感がなんともいいのです。


私は毎日アシュラムへ行き、静かに座って過ごしました。

別に何が起こる訳でもありませんでしたが、ただそこで静かに座っていれば、満足できる。それこそが不思議な体験でした。


当時私の心は、今より遥かに騒がしく、外へ外へと動き回り、駆り立てられ、何かになろう、何かを得ようと必死になっていました。

ですから目を閉じてもまともな瞑想などできるはずもないのですが、それでもここにいるだけで良いと、感じることができたのです。


今、その時の感覚を思い出してみると、まさにそれがラマナの「臨在」のなせる技だったのかもしれないと思います。


ラマナ・マハルシは沈黙の聖者とも呼ばれ、沈黙の中で伝達される言葉を超えた教えを、とりわけ大切にしていました。

本の記載によると、真我実現した彼の臨在を直接人々に伝達していたのです。

彼は死の間近にこう言い残しています。


「『私』がどこに行くというのか。どこへ行けるというのか。」


個としてのラマナが、死してもなおここに残ると言う訳ではありません。

私たちの本性は生まれることも死ぬこともない「真我」なのですから、

そもそもどこかへ行ったり来たりする存在ではないと言うことです。


しかし通常人は真我ではないものと自分を同一化しているので、

肉体を離れた後も、再び新しい肉体と同一化して輪廻を繰り返してしまうというのがインドの考えです。

しかし自己の本性を悟ったラマナは、もう新しい肉体に同一化して生まれ変わることはありません。(それが解脱。)


ラマナが肉体を去った後、大きな光がアルナーチャラ山の山頂に輝き、山とひとつになったという証言が残されています。


理論上は肉体が失われた後も、臨在はまだそこに満ちているということになります。


その臨在が、騒がしい私の心を静めてくれたのかもしれません。


しかし残念ながら、ただラマナ・アシュラムへ通って静かに座り、「私は誰か?」と問いかけ続けても、自力で変容を起こすことは簡単ではないのでした。

いくらそこに特別な何かがあったとしても、そこで起こっていることを理解できる知性と、解説してくれる誰かがいなければ、ただの一時的な不思議体験で終わっていまいます。


二度目にティルバンナーマライを訪れた時に、私はそのことを痛感し始めました。

ということで、私は生グル(生きている先生)を求めて、アシュラムの外にも目を向けるようになりました。

結局、じっとしていられない性分なのですよ。(苦笑)


ティルバンナーマライのシーズン中は国内外から多くの覚者(自称も含め)や先生がサットサンを開きます。ほとんどがお心付け(ドネーション)で参加できます。

旅人の集まるカフェに行けば、掲示板にこうしたサットサンのチラシが貼り付けてあるので、それをチェックして気になったところに足を運んでみる。


その中で、非常に印象深い人々に出会っていきました。

この話の続きも、いつか書いてみようと思います。


ラマナ・マハルシの言葉は学びが深まっていくにつれ、より魂に染み込みんできます。

わかったつもりで読み飛ばしていた箇所、さりげなく大切な事が語られていることに気が付いたり。

何度も何度も読み返しその度に発見があり、このふんどし一丁生き続けた、半裸のおじさんへの愛が募っていきます。


ラマナ・マハルシが私の探求の原点であり、「父」であることには、今も全く変わりはありません。







by umiyuri21 | 2019-07-29 16:34 | 探求


瞑想やヨガ、インド占星術、創作活動、日々の暮らしや旅など、色々綴っております。基本的に長文です。


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