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心を見つめる、稀有な時間

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前回の記事から数週間、目に見えない極小の生物は瞬く間に世界に広がり、大変な事態となっております。皆様ご無事でしょうか?


とうとう都内でも週末は外出制限のお達しがなされて、じわりと緊迫した空気が濃くなってきました。私も可能な限り不要な外出はしないように過ごしています。


人に会ったり、人混みに出かけるたびに身構える日々、一番安全なのは一人で家に篭ること。こんな事態は、少なくとも自分が生きているうちは、後にも先にも今しかないに違いありません。世界中が一斉に立ち止まって、否が応でも内を向くしかない時間。きっと何か理由があるのでしょう。


私の場合ちょうどインドから帰国して2年経つのだけど、日本に戻ってからはずっと半分引きこもりみたいに暮らしていました。何故か引きこもらざるを得ない出来事が次々と起こるのです。今回も胸の手術が終わって数ヶ月、体調も安定してきたから、そろそろヨガ教室も再開して、と色々計画してたら、またも予想だにしないことが起こってしまいました。


引きこもりライフは慣れたもので、じっくり瞑想したり、最近勉強始めたインド占星術やタロット、絵を描いたり、読書とやることは沢山あって、暇を持て余すということはないのだけど、このスタック期間が長すぎて、いい加減にしてくれと毒づきたくもります。


でも、先日ふと思い立ったのは、これはもう完全に根本的に生き方を変えろというメッセージかもしれないなって。今回の出来事があって、多分多くの人が自分の今までの人生を振り返ったりしていると思います。


私もいかにこの生活が脆弱な経済基盤の上に成り立っていたかを思い知りました。もちろん自分がそういうことに無自覚でいたという「自己責任」もあるのだけど、それだけではなく、そもそものこの社会構造にも起因している部分もあるわけで。でも結局この社会構造は、人間一人一人の心のあり方から成り立っているんですよね。社会という大きな建物を作ってるのは、人間という小さなブロックなのです。


今までは何かをやろうとしても、そうした既存の構造(社会構造だけでなく自分の精神的な構造も含めて)の上に建物を建てようとしてた。それを今一度ザクッと底から掘り起こす必要があるのではないのかなと。

占星術的にもそういう時期が来ているのは感じてはいたけど、こんな形だったとは。


そうした流れの中で、マイロハスというWEBマガジンで、「心のコリをほぐす、マインド筋トレ」という連載を始めることになりました。体と同じように心も整えられる、というコンセプトなので、主にマインドフルネス系のお話が多くなると思います。瞑想→精神世界というイメージを払拭し、しなやかで自由な心の作り方を、様々な角度から取材し、紹介していきたいと思います。


こんなバタバタのタイミングでのスタートですが、今こそこういう知恵がものすごく必要になっていると実感しています。今後は具体的な瞑想方法なども紹介していきますので、皆様の日々の内観、心のストレッチに役立てていただけたら嬉しいです。


今だからこそ自分の制限をがっつり取り外して、新しい生き方を模索できるチャンスだと思います。

自分の制限を取り外す、というのは言葉で言うのは簡単ですが、一番大きな制限は「自分」という境界線だと思っています。自分が自分だと思っているこの境界をしっかり見つめていくと、自分が勝手に作った観念でしかないと分かります。


これを取り除くとき、自分を超えた大きなものの眼差しで、世界を見ることが可能になる。そうすれば「自分」という成層圏を突破したところにあるものが、この体に流れ込んできます。


時代は今、そのくらい大きなシフトチェンジを求めてるんじゃないかな。








# by umiyuri21 | 2020-03-26 18:00 | 瞑想

心という小さな家、世界という大きな家

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何だか世の中は、とても大変な空気になっています。

インドではとうとう日本人(中国、イラン、イタリア、韓国も)に対してビザの発給を一時停止しました。この騒ぎが収まるまではインドに行くことはかないません。

ウィルスの恐怖は人を分断します。見えないから疑心暗鬼になってしまう。親しい人すら疑わないといけないのだから、不安と恐怖で人と人がますます分離していきます。


しかし今、心が不安や緊張にいっぱいになったことろで、私たちが現実に対処できるのは、マスクを着用したり、手洗いやうがいを徹底すること、人が密集する場所に行く頻度を減らすということぐらいしかできません。活動的になりようもないのだから、自分の内側を見つめて行くにはぴったりの時期ですし、そういうことを促されているようにも感じます。


以前バリー・カーズィンさんというアメリカ人医師でチベット仏教の僧侶の方のレクチャーに参加した時、バリーさんが「家に帰る」というテーマで、印象的なことを語っていました。私たちの最も小さな家は「心」であり、最も大きな家は「世界」だということ。私たちが世界という大きな家をケアすることと、心という小さな家をケアすることは繋がっているというお話でした。

よかったら以前書いたこちらの記事を読んでみてください。

この時は環境問題をテーマにしたお話だったので、日々の生活の中で環境に気を配る、マインドフルネスな行動が地球を守ることに繋がっていくという内容でした。


ある日、この話をふと思い出し、今自分が、大きな家である世界のためにできることは、心という小さな家を整えることだと感じました。私は今、現実的には世界のために大したことはできません。そもそも外出するなという状況なのですから。だったら、無駄な心配はやめて、心静かに祈ろうと思いました。

人の心は共鳴しますから、パニックはパニックを呼びます。パニックは人を不安に陥れ、人を疑い、憎しみと怒りに導きます。不安はウィルスと同じで目に見えず、心の中で勝手に増幅します。

逆に心が静かでいる人が一人いれば、それが伝わって隣の人も平静でいられるかもしれません。そうすれば起こったかもしれない争いや憎しみが、ひとつ減るかもしれません。でも、それはウィルスを気にしないとか、何もしない、というのとは違うと思うのです。

「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはならない。また無為に執着してはならぬ。」

このバガヴァット・ギーターの精神は今、結構大切ではないかなと思うのです。今自分ができる最善を行い、あとは心静かでいる。そして可能な楽しみは自粛しないで、淡々と生活するだけ。


もうひと押し何かしたいなと思ったら、マントラを唱えたり、慈悲の瞑想や世界平和の祈りとか、自己流の祈りでもなんでも良いのかもしれませんが、自分の内から外へ、ポジティブなエネルギーを流してみるのも、心が整います。マントラは厄災を防ぐ Mahamrityunjaya mantra 、心の平和を促す Lokah samastah sukhino bhavantu などが良いかも。聴くだけでも効果あります。

私も朝の瞑想の前後に祈りやマントラを日替わりで行っていますが、かなりいいですよ。エネルギーがぱりっと浄化されるのが分かります。手を消毒する気分で心も洗い流すような感じです。


今日、この世界の生きとし生けるもの全てが

幸せで平和でありますように


ありがとうございます。




# by umiyuri21 | 2020-03-04 21:00 | 瞑想

私という深き問いかけ〜ニサルガダッタ・マハラジ「意識に先立って」

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前回ラメッシ・バルセカールの「誰がかまうもんか?!」について書いたが、ニサルガダッタ・マハラジは彼の偉大なグルである。


マハラジの代表作である「アイ・アム・ザット」は随分前から持っていたけど、ものすごく分厚い本で読みにくく、マハラジの突き放したような物言いが、取りつくシマもない感じがして、なかなか読み切ることができず、ずっと苦手意識を持っていた。

しかし「誰がかまうもんか?!」を読んでからは、マハラジが言わんとしているポイントがぐっと掴みやすくなり、割とするする読める様になった。ようやく、数年がかりでほどんどの部分に目を通せたので、今は晩年の講話集「意識に先立って」を読んでいる。

「意識に先立って」はマハラジの最晩年、喉頭癌の痛みに耐えながら行った講話を収めており、所々にはっきりと死を見据えた発言や、身体的な苦痛を訴える言葉が散見される。「アイ・アム・ザット」の頃は、探求初期にある弟子の身近な質問にも丁寧に答えていたが、もうそんな余裕はなく、死ぬ前に大切なことだけ伝えておく、理解できない人は帰りなさい。という気迫に満ちていて、それが胸を打つ。


一般には「アイ・アム・ザット」より抽象度が上がっているので、難解と言われているのだが、余計な部分がそぎ落とされてエッセンスが凝縮されており、分量も少ないので、私にはこちらの方がすっと本の中へ入っていけた。何より、死を直前にして「これだけは伝えたい」という熱量が行間からあふれ出ており、読んでる方も逃すまいと、つい真剣になる。

「意識に先立って」のあとがきの中で訳者の高木悠鼓氏が書かれているが、このニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハルシ、ラメッシ・バルセカール、プンジャジなどに代表されるインドの非二元系の教えは、便宜上宗教とかスピリチュアルに分類はされるが、実は非常に厳密な科学的なアプローチである。


探求、調査、研究される対象は「私」と「世界」のかかわり。

「私とは一体何者なのか?」ということを徹底的に問いかけていく。


私とは一体何か?私はどこからやって来て、どこへ去っていくのか?

ものすごくシンプルで根源的な問いかけなのだ。


小さな頃、誰もが一度くらいは、そんな素朴な問いを投げかけたことがあるのではないだろうか。私は一体どこからやってきたのか?死ぬとはどういうことなのか?私は何故、何のために生きているのか?

親や学校の先生は、彼らが生きている社会や宗教の常識や規範に従って、私たちにそれを教えてきた。精子と卵子が受胎して胎児になって母親の子宮から生まれたという解説もできるし、人間はダーウィンの進化論に沿って進化してきたと説明きるかもしれないし、インドならカルマや前世の考えがあり、キリスト教なら罪や天国や神の考えからその答えを子供に言うかもしれない。

何のために生きているという問いには、社会で成功するため、家庭を持って繁栄させるため、人の役に立っため、幸せになるため、今なら自分の好きなことをするためとか、いずれにせよそれは、時代や地域性に限定されている。


そうした言葉を心に刻みつけて子供は大きくなり、それに従って生きていく。それで上手くいくなら、しばらくは何の問題もなくそのまま人生は送られていくだろう。

でもいつか、人はふと立ち止るのだ。

「それって何か違う気がする。本当のことが知りたい。」と


ラメッシ・バルセカールならそこに探求者の自由意思はなく、探求が自然に起こると言うだろう。探求が始まるのに理由はいらない。もちろん人それぞれに色々な理由があるだろうけれど、結局それは突然起こり、これぞれ固有の運命に従って展開していくだけだ。

探求は色々な形で起こる、ヨガや瞑想に熱中したり、マントラや祈りを唱えたり、座禅を組んだり、スピリチュアルなセッションを受けたり、グルを探す旅に出たり、アシュラムに入ったり。

そこで神秘的な体験が起こったり、至福に酔ってもう大丈夫だと思ったり、そして再び惨めさに転げ落ち、「さらにもっと何かがあるはず」と探求を続ける。


この本を読みながら、ふと感じたのは、私は物事を複雑に難解にしていたけれど、探すべき場所は拍子抜けするくらいの足元、子供の頃に時折感じていた不思議な虚空の、あの彼方なのではないかと。

目が覚めた瞬間のあの空白の時間。

よく知った風景をじっと凝視していると、急に見知らぬ風景に見えて、目を凝らした驚き。

かくれんぼをしていて、押入れの中の暗闇で息を潜めていた時の深い静けさ。

森の中を散歩する時に感じた、全てが溶け合ったような穏やかな至福。


そこにいたのは誰だったのか?名前なく年齢もなく国籍も性別もなく、私が体だという意識もなく、自分が美人だとか醜いとか、頭が悪いとか賢いとかいう認識もない。

けれど、確かに自分はいる、と言う感覚

その私は何者なのか?


その誰でもなかった私は、いつのまにか体や名前、性別や国籍を自分を同一化して、「これは良いけどあれは悪い」「私はこう言う人間だから、こうしなければいけない」「あれをしてはいけない」「幸せとはこういうもの」と色々と余計なものを後付けしていっただけなのだ。

自分自身を「あれです、これです」と概念で分割する前、私とは一体誰だったのか?様々な概念で無数に分割される前は、私は制限のない自由な存在だったのではないか?それらの後付けを全て取り去った時、残るのは何か?

探すべきはその場所、その一点のみだ。


「ここであなたが得る唯一の知識は真我の知識だ。それはこの世で生計を立てるのには役立たないことだろう。自分の本質は何かという観念をあなたはもっていないのだろうか?あなたは自分が何でないかを理解したのだから、自分でないものについて関心をもつべきではない。そのことは明確だろうか?」

私とは本当は何なのか?そんなことを問いかけ続けたって本当に飯のタネにも何もなりはしない。子供が親にそんな質問をしたら、「バカなことを考えていないで、宿題でもしなさい!」と叱られてしまいそうだ。そんな命題を人生をかけて探求し、人々に説き続けてきたインドの賢人達ってやっぱり度が過ぎてるなあと思うのだ。

けれどまさに「私」という存在こそ世界と向き合う基盤そのもの。だから私を掘り下げることは世界全体を掘り下げることに繋がっていくのだと思う。


本文の口絵に、最晩年のマハラジの写真が掲載されており、私はその強烈な眼差しから目が離せなくなってしまった。その写真とともにマハラジの言葉を追っていると、彼がやがて移行するだろうその虚空へ引き込まれていく。もちろん厳密には彼はどこかに行くわけではないが...

その虚空は私たちがやってきた場所であり、今もまたそうであり、未だかつて一度も離れたことのない場所。来ては去っていくのは身体で、そのスペースは決して変化することはない。

死とはなんて驚くべき神秘なのだろう。


「あらゆる人が死ななければならない。だったら、自分の本質として死になさい。なぜ肉体として死ぬのか?自分の本質を決して忘れないようにしなさい。そのことは多くの人たちには受け入れられないかもしれないが、それが事実だ。
 もしあなたが野心をもたなければならないとしたら、最高の野心をもちなさい。そうすれば、少なくとも死ぬ最中に、あなたは絶対になることだろう。今、断固として信念を持って決意しなさい。」


 

思い起こせば私の探求が突然始まったのは、2011年の震災の後だった、多くの死を目の当たりにした時に、理由もなくそれは起こり、背中を押され続けて、気がついたら今日まで来ていた。

そして今、世の中はあの時と似た重い死の空気に包まれている。こういう時、人の存在は揺り動かされ、裂け目が生じ、幾割合かの人々が探求に駆り立てられていくのだろうと感じたりしている。


「私」とは、そして生きることと死ぬことは何かを探しに。


ニサルガダッタ・マハラジについて興味のある方はこちらの動画がおすすめ。英語ですがいい映画です。

Rays of the Absolute







# by umiyuri21 | 2020-02-23 22:22 | 探求

自由意志はあるのか?

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お正月に弟に会って、ちょっとホロスコープを見てあげたら、結構当たってると驚かれた。超初心者の見立てであったが、身内は星の象意を特定しやすいから他の人より読みやすいのだと思う。占いにあまり縁のない弟は何気に驚いたらしく、運命って決まってるのかなと色々尋ねてきたので、そのままカルマとかのインド哲学の話になったりして、分かりやすい動画送るよとYouTubeで調べはじめたら、結構面白くなり、ミイラ取りがミイラになって、久々にラマナ・マハルシなどの動画を見漁ってしまった。


インド占星術では運命7割、自由意志3割と言われているけど、ラマナ・マハルシは全てが決まっていると講話集の中で述べている。


「何であれ起こらない運命にあることは、いかにあなたが試みても起こらないだろう。何であれ起こる運命にあることは、いかにあなたが避けようとしても起こるだろう。これは確実である。それゆえ、最善の策は沈黙にとどまることである。」(ラマナ・マハルシ)


起こるべきことは起こり、起こらないことは起こらないのだからジタバタしても無駄、と。


この全てが決まっている、自由意志はないという考えを、さらに強調して教えたのがニサルガダッタ・マハラジの弟子だったラメッシ・バルセカールという方。銀行の頭取まで務めたエリートで、退職後マハラジと出会って覚醒し、教えるようになった。


彼の著作は読んだことがなかったので、いい機会だから「誰がかまうもんか?!」を読んでみることにした。

多分今読むべき時だったのだろう、かなり引き込まれた。

なかなか押せなかった自分の再奥にあるスイッチを、カチッと押してくれたようだ。


自由意志が全くないと言うと、人は大抵拒否反応を示すが、逆を返せば全てが決まってるのだとしたら、好きな事を好きなようにやっても、決して間違えようもないということになる。もちろんだからといって全てが上手くいく訳では当然なく、失敗や損失が起こっても、そこに自分の責任はなく、予め決まっているということだ。

それは人生をシンプルで平和で、リラックスしたものにしてくれる。


何故なら私たちは、いつも人生と自分と世界と戦っているからだ。

私も自分の選択が間違えるのではという、大きな恐怖を抱えて生きてきた。

やるべき事をやらなかったり、間違った選択をして失敗したり、それによって手に入るべきものを失ったり...つまり自分の責任で、人生が失敗するのでは、という考え。

だから時に過去を悔み、未来を大いに心配し続けてきた。


でも自由意志が全くないとしたら、何も心配する必要はない訳だ。

これって実はものすごく自由なことじゃない?

自分は間違えてるかもしれないって恐怖がなくなるのだから。


「人は自由意志をもっていません。でもだからといって、あなたがどんな瞬間にも自分の好きなことをすることの妨げにはなりません。ですから、どんなときにも自分がしたいと思うこと、するべきだと思うことをやって人生を楽しんでください。それがその瞬間の神の意志です。でも、自分の意志が実行された時の結果は誰にもわかりません。ある時は良い結果で、ある時は悪い結果で、どんな人もそれを受け入れることしかできません。それを受け入れれば、罪悪感、プライド、憎しみ、嫉妬から解放され、人生は平和になります。」(ラメッシ・バルセカール)


インド占星術を学びはじめて数ヶ月経つ今、この考えはかなり抵抗なく受け入れられる。

自分の過去の出来事を星の運行と照らし合わせるほどに、どう考えても自分は星の通りに生かされていると思うしかないから。


インド占星術では自由意志3割の部分をマントラや奉仕による自己浄化、ムフタールなどの吉日選定やプージャなどによって改善する方法が用意されている。でもマントラによって運命が改善したということすら、初めから決められていた脚本と考える事もできる。


自由意志がないと言っても、好きなことが何もできないのではなく、好きなことをすればそれが神の意志ということだ。それを見せかけの自由意志とラメッシは述べている。



ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジ、そしてラメッシ・バルセカールらの説く.非二元論の考えでは、私たちはたったひとつの意識によって生かされている。全てはその内側で起こっていることにすぎない。この世界は内側で発光するスクリーンに映し出された3D映画のようなもの。この身体が主体で外側が対象なのではない。


この世界の全て、目の前にある部屋の風景

パソコンの画面、キーボード 目に映る指先

お尻に触れるクッションの感覚

内側の呼吸の感覚、胃がグルグルいう感触

頭の中で浮かぶ文章、心で起こる感情

私だと信じているこの体、そして向き合うあなたも

全て意識というスクリーンに映し出された映画だとしたら?


脚本はすでに書かれており、私たちはそれに従って演技させられているだけ。

行為している者はいなく、行為だけが起こっている。


とするなら占星術が示すのはその脚本のネタばらしだ。

マクトゥーブ、すべては書かれている、スーフィーではそう言うし、

インドでもこの世界は神のリーラ(遊戯)だと言う。

実際にラメッシ・バルセカールもナディ占星術(アガスティアの葉のような占術)の鑑定で自分のスピリチュアルな進展のプロセスをドンピシャで当てられたそうだ。


この世界の登場人物は、意識のスクリーンの上で演技をしている俳優なのだと考えると、そうしたら、人間に優劣はなく、間違っている人も正しい人もいなくなる。賢者と呼ばれる人は、きっと賢者としての役割を、ただ自分が演じさせられるままに、楽しんでいるのかもしれない。


そしてもし、誰かが私を傷つけるような事を言ったり行ったりしたとしても、傷ついた私も傷つけた誰かも同じ源からやってきたに過ぎず、ただそれらが起こる事によって、痛みや怒りや対立のような場面が演出されているだけと言える。

それはなぜか?ストーリーは脚本を書いた存在だけが知っている。


自分の世界観がガラガラっと反転して、なんだかものすごく、全てが軽くなり、世界に対してじんわりと愛おしさが湧いてくる。


まあ今は、星の配置も過激で、社会の構造が大きく変わると言われているのだから、私の世界の構造もひっくり返ってもおかしくはない。


という訳でこの本は私に静かな衝撃を引き起こしている。これを読んだだけでは当然「そうは言っても...」と色々な疑問が湧くはず。本ではもっと理論的に丁寧に述べられております。

興味のある方はぜひご一読ください。Kindle Unlimited で読めますよ。(でも紙の本が欲しくなってしまった。)











# by umiyuri21 | 2020-01-15 21:12 | 探求

2020年 明けましておめでとうございます!

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明けましておめでとうございます!

今年も自宅で静かに過ごすお正月です。去年からインド占星術の勉強を始め、星の動きを良くチェックするようになりました。トランジットや自分のダシャーの流れを見ながら、今年はこんな感じだろうかと予測するのも楽しい勉強のうちの一つ。

2017年末からトランジットの土星が、私の第一ハウスに当たる射手座入っておりましたが、1月24日にようやく隣の山羊座に抜けてくれます。トランジットの土星は約30年で12星座を一周するので、ちょうど30年周期のスタート地点に当たっていたんです。

ということで、なかなか厳しめな数年でした。現実に向き合わされることが多く、重かったなあ。私の場合アセンダントに金星が重なってるせいもあってか、楽しみや美意識を感受する金星が土星の圧を受けてよりストレスを感じるのかも。


30年前もちょうど就職活動~入社という時期で、厳しい現実に向き合わされるという状況は全く同じ、星のサイクルってやっぱり面白いなあと思います。3年弱土星に乗っかられるとようやく慣れてきたのか、押さえつけられているという感じがなくなってきて、この現実の中で最善のためにどう対処していくかという前向きな思考が生まれつつあります。今年は飛躍するというよりも、しっかりと力を蓄える時間になるだろうなと感じています。

まあ、ダシャー的にはまだ落ち着く感じじゃないから、変化に耐えうる土台を固めるイメージ。社会的にも今後大きな変化が起こっていくだろうという予測もあります。自分の中心に意識をしっかり引き戻して、ちょっと引っ張られるようなことがあっても、いつも戻れる家を作っていく。(内側も外側も)


私のホロスコープは放浪体質が強め、すぐに何かに心酔してしまう。それは集中して対象に深く入るという点では良いけれど、対象側のマターに引っ張られやすい。それが物ならいいけど、人間だと面倒なことをよく引き起こします。それも、自分のホロスコープを追っていくと全部出てきて苦笑いしちゃった。そういう時、ちゃんとパターンに気がついて、相手のマターじゃなくて、自分のマターをしっかり聞いて軌道修正する。

それは自己中心的というよりは、相手に依存しない体制を作るわけだから、結局自分にも相手のためにもなるんだろうなって。今年はよりそこに意識的になりたいな。


お休みしていたヨガクラスも月一ベースにして、春頃には再開したいと計画しています。生活の中でヨガは続けていますが、クラスがないとモチベーションが上がらないのか体もどんどん硬くなってしまいますね。

本年度もどうぞ宜しくお願いいたします。

みなさまにとっても、より良き一年でありますように。


# by umiyuri21 | 2020-01-01 21:00 | 日々の暮らし

「ラーンジャナー」狂おしすぎる純愛映画

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インド映画「ラーンジャナー」を観て来ました。2013年の作品ですが、なかなか観る機会がなかったのです。これが期待以上に心をえぐられる切なすぎる恋愛映画だったので何か書かずにいられなくなりました。
 この映画はパンジャブ地方の代表的なスーフィー(イスラム神秘主義)文学「ヒールとラーンジャー」を元にしています。ヒールとラーンジャーの物語はインド版ロミオとジュリエット。インド映画でも度々取り上げられ、スーフィー音楽の中でも好んで歌われる題材です。ですので、単なる悲恋物語ではなく、その中に愛の本質や、神への熱烈な思慕や渇きがメタファーとして隠されています。

「ヒールとラーンジャー」のあらすじは...
 流れ者の牛飼いラーンジャーは、雇われ先の家の娘ヒールと恋に落ちるものの、身分違いの恋はヒールの家族には当然認められず、ヒールは別の男と結婚させられます。ラーンジャーはジョーギー(ヨガ行者)となって各地を放浪し、偶然ヒールの嫁ぎ先を訪れ再会を果します。苦難を乗り越えとうとう2人は結婚にこぎつけるが、ヒールの家族の策略で、結婚式当日にヒールは毒殺されてしまいます。悲しみにくれたラーンジャーも後を追う、というものです。

 映画のストーリーはネタばれになるのであんまり追いかけませんが、ヴァラナシの僧侶の息子のクンダンは、裕福なムスリムの娘ゾーヤに一目惚れします。熱烈な求愛ぶりに、ゾーヤも一時期心が動きますが、結局親にバレて、ゾーヤはアーリーガルの学校に送られてしまう。そして8年ぶりに二人は再会するが、ゾーヤには恋人がおり...そこから物語は愛と憎しみと痛みが三つ巴の様相で、さらに政治的なテーマが絡み、思わぬ方向へと流れていきます。

 とにかく主人公のクンダンの一途すぎる愛が完全に地上のレベルを超えている。もともとインド映画における男性の求愛は、日本人から見たらほとんどストーカーなんですが、クンダンの求愛はマジで通報ものです。クンダンの愛が神話的なのは、保身も妥協(一瞬好きじゃない女性と結婚しかけるけど)も全くしないこと。ゾーヤへの愛から生まれるあらゆる感情、痛みや憎しみにすら抵抗せずに受け入れ、真っ直ぐ突っ込んでいきます。自己犠牲的というよりも自己すら愛に飲み込まれてしまっている。

 もしかしたらこの映画はラーンジャーが生まれ変わって再び誰かに恋をしたら、という設定になっているのかもしれません。冒頭、少年のクンダンはシヴァ神のコスプレをして登場しますが、これはラーンジャーがヨガ行者であったことと重なります。
 クンダンはヴァラナシ育ちのタミル人の僧侶の息子という設定で、バラモン階級なんだけど、学もお金もなく、ゾーヤを慕うあまりに身の上をごまかしてゾーヤの家の小間使いとして働いたりする。しかし、終盤に政治的な手腕を発揮したりして、特別な知恵を持っていることが分かります。

 それに比べたらゾーヤは普通の人間として描かれている感じがします。私はゾーヤがヒールの生まれ変わりとは思わないですね。ラストの台詞もそれを匂わせます。
 映画の中では彼女はズルイ感じに見えるけど、あれが地上レベルの恋愛でしょう。思わせぶりな態度を取ったり、クンダンの好意を無意識に利用しようとしたり、打算だって保身だってするし。でもそれって、普通の人間が普通にやることでしかない。育ちも良く、美人で秀才、そういうプライドも当然持っている。ゾーヤは彼女なりに幸せになりたかっただけなんですよね。

 普通の人間が人間レベルを超えた愛をぶつけられたらどうなるか?そこに宗教の違いや、学歴や身分の差やしまいには政治、そういう社会的なものが絡み合ってくるわけで、そしたらもう痛みしかない、悲恋になるに決まってる。愛された方のゾーヤだっていい迷惑で、結局彼女もどんどん不幸になってしまう。

 ゾーヤは政治活動に身を投じ、クンダンは完全に地上の生活を忘れて愛に身を捧げた狂気の人になってゆく。前半は色に溢れていた映像は、舞台がデリーに移るとモノトーンになっていきます。痛みと憎しみと喜びと愛しさが、二人の中でプリズムのように入れ替わってゆく様を、ストーリー、映像、音楽、そして演技で見事に表現しています。ARラフマンの音楽が本当に素晴らしいです。

 物語の中盤で、二人の関係がドロドロの様相を呈していくときに、流れる「Piya Milenge」の歌詞がまたロマンティックなスーフィーソングで、切なすぎます。

あなたが外側で探している者は
あなたの内に隠れて座っている
あなたの中に大海があるのに、なぜあちこち探すのか

心の背後にあるカーテンを動かし
ヴェールを開きなさい
あなたは愛しい人を見つけるだろう
あなたは愛しい人を見つけるだろう



 ここで歌われている愛しい人は、外側の人間ではなく、私たちの内なる恋人、内なる光、すなわち神なるものです。あなたが外側ばかりを探さずに、知恵を持って内側を探せば愛しい恋人を見つけることができるのに、と。

 ピュアすぎる愛はこの地上では悲恋にならざるを得ないのです。だからそうした愛の物語は神話になる。裏を返せば、この地上でそれなりに幸せになるには、愛にも打算や妥協が必要だってこと。
 それは何も身分や宗教の制限のあるインドだけの話じゃない、日本だって本質的な部分では同じです。結婚は愛以上に社会制度なのだから。良いとか悪いとかいうのではなく、この世界が今の所そうやって成立しているのだから。そしてどんなに美しかろうと、相手が人間である限りは不完全な存在です。
 それらを全てぶっちぎって愛の純度を保ち続けようとすれば、周りも自分もどんどん都合が悪くなって来るのです。

 完全に純粋な愛は、本当は内なる恋人に捧げることでしか完結しない。クライマックスで流れるスーフィーソングが歌うように、あなたの本当の恋人はあなたの内側にある。そんなの分かっちゃいるけど人間は、人を愛することをやめられない。
 そうしてクンダンは生まれ変わっても再び次のゾーヤに恋をするだろうと言い残して、この世界を去っていきます。

 何ともいえない引き裂かれた狂おしさが充満して、今も深い余韻に包まれてサントラをリピートしまくっています。

インドでも沢山賞を取っている映画のようです。個人的には今まで観たボリウッドの中でも5本の指には入れたいな。機会があったら是非観て欲しい!

# by umiyuri21 | 2019-12-23 22:32 | 映画

冬の夜長の占星術

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かなり久々のブログ更新になってしまいました。

8月末に手術&9月初めに退院してから、もう3ヶ月!その間何をしていたかというと、9月中は完全に倒れてました。

担当医に術後2週間くらいで普通に動けますと言われたものの、買い物に起き出すのが精一杯。

このままちゃんと回復するのだろうか、と心配になるほどでしたが、秋分の日あたりからぼちぼち動けるようになりました。

10月から少しづつ仕事に復帰し始めたけど、連日外出すると翌日へたってしまう感じで、11月あたりからやっと普通モードになってきたかな。

そしてもう12月!私の2019年はほぼ、この胸の手術に費やされてしまったような。

現在ヨガクラスもお休みしていますし、自宅療養といっても頭は働くので、ふと以前から興味のあったインド占星術の勉強を始めたらすっかり夢中になってしまいました。


前々から興味はあったものの、占いに振り回されてしまうのが嫌でなかなか足を踏み込めませんでした。

しかしインド占星術の重鎮である、KNラオ先生の著作を何冊か読み進めるうちに、自分が今まで学んできたことと、これから学ぼうとすることはちゃんとリンクするのだと分かって熱が入り、何度か鑑定をお願いしている吉野まゆ先生の初級講座に通い始めることに。

基本事項を頭に入れて、表面的ながらも少しづつ解読できるようになると、いかに自分の人生が星の動きとともに変化し、翻弄されているかが分かって驚愕の連続。

その時自分の意思で選んだつもりの行動すら、星の動きによって決定されている。


そうやってホロスコープに没頭しているうちに、これは初心者あるあるですが、自分のホロスコープの中の悪い点を次々発見して、落ち込みがちに。(苦笑)

まあ、良くも悪くも色々見えてしまうし、今まで自分がしてきた行いや、これからやってくる要注意の天体イベントなどなどに思いを馳せて、ドッと暗くなってしまう。

約2年前にインドから帰国したときは、ちょうど私のアセンダントにトランジットの土星が重なった時期で、そこからの2年間は、ここ数年の無謀な行動の落とし前つけろよってな感じの、まるで反省部屋に入れられてるかのような時間。2回も手術したり、こうやって人生深掘りしてるのも反省文書いてるぽいなあ。

なので、ちょっと気弱になっているのです。


ラオ先生は占星術の勉強をするのは「サーダナ(精神的な修練)」であり、そしてヨガの八支則にあたる「ダーラナ(集中)」の訓練になると述べています。

そのインタビュー集「天の羅針盤」の中ではこう答えています。

「もし、あなたが正直に占星術に取り組むなら、人々の相談をうけていくなかで、あまりに多くの人がマーヤー(幻影)にとらわれている姿が、見えてくるでしょう。そしてあなたは、すべてから少しづつ心が離れていくのを感じ始めます。」

つまり学びを進めていけば、占いに振り回されるのではなく、その逆のことが起こると言うのですね!それはマーヤーを理解すること、敵を持って敵を制するというか。つまり天気予報を知っていれば、日々の天気に振り回されることは少なくなる。

それが長じれば天気予報を知ってても知らなくても、日々の天気のことなど、どうでもよくなるのかれません。


自分のホロスコープ見て一喜一憂してるレベルなので、そこはまだ先の話...

しかし初心者の通る道とはいえ、ホロスコープに飲まれて、臆病になってしまうのはくれぐれも避けたいと思います。気持ちはいつでもタロットの「愚者」くらいで。

このブログでも星ネタが増えてくると思われますが、懲りずによろしくお願いします。



# by umiyuri21 | 2019-11-30 16:54 | 占星術

身体という門

身体という門_c0010791_22064093.jpg



神宮前のヨガクラスは一旦クローズになります。


いよいよ、人生初の入院まで1週間となりました。

たった1週間の入院ですが、自分にとっては大きな手術でありますので、自ずと色々なことが、見直しモードに入っています。


そんな流れの中で、長らく続けてまいりまいりました、神宮前Ruhani Bellydance Artsでのヨガクラスを一旦クローズすることにいたしました。

当初は術後1ヶ月ほどで再開しようと考えていましたが、クラスの再開は今のところ未定です。


再びクラスをはじめるとしたら、どのような形が最善か、クラスに来てくださった方々の意見も伺いつつ、再構築したいと思います。

今までヨガの時間を共にしていただき、どうもありがとうございます。

スタジオの主催者であるNourahさん、そしてスタッフの方々にも深くお礼を申し上げます。


一緒にヨガができて、とても楽しかったです!

また新たな形でお目にかかりましょう。



淡々と準備をしつつも、それでも体の一部を切除するのですから、その後の世界はどんな風に見えるんだろうと考えています。

きっと変わるのは身体だけであって、私の中心は何も変わらないのでしょう。

身体はいつも変化し続けています。一瞬たりとも同じところにはいません。

生まれた瞬間から、すごいスピードで老化し死に向かっていくだけです。

そこで何が起ころうとも、それは変化の一形態に過ぎません。


診断が下ってから、数年も往生際悪く放置していました。

その間私はずっと自分の間違い探しをしていました。

病気になった私はどこか間違っている、その間違いを探さなければいけない。

その間違いを見つけて正せば、病気は治るかもしれないと。

胸だからハートが傷ついているとか、女性性が傷ついているとか、自己愛が足りないとか、食べ物が悪いとか、生活習慣や考え方のせいかもしれないとか。



そして時間が経つうちに、私はこの身体の周りに沢山のストーリーを張り巡らせていました。

でも結局、答えは見つかりませんでした。


答えがない、と気がついたのが答えだったと思います。

ぐるぐると探し続けていた、この身体に張り付いた「若山ゆりこ」というストーリーは、なんの実体もなく、夢のようなものでした。


病気になったのは、生活習慣かもしれないし、遺伝かもしれないし、ネガティブな考え方かもしれないし、悪い性格のせいかもしれないし、カルマかもしれないし、星の巡り合わせかもしれません。

でも、正解は誰にもわかりません。

そこに無理やり意味や原因をこじつけても、真実ではなく、それにしがみつくことこそ、自分を苦しめていたのでした。


その時、後生大事に抱えていた、重たい荷物をストンと下ろしたように感じました。

私はそこに何のストーリーを挟むことなく、この身体という現実に、ただ対処するしかないのだと気がつきました。

本当に単純なことだったのです。まあ、馬鹿ですよね。




たがが身体、されど身体です。

生きているということは、身体がこの世界にある、ということです。


「身体は神々に至る神殿の門だよ。だからいつも綺麗にしておきなさい。」

と私のヨガの師は言いました。


彼は身体を「神殿」ではなく「神殿の門」と言いました。

神々の住まう神殿は、身体を超えたところにあります。

けれど、門を通らずして、神殿に向かうことはできません。


私たちがこの世界に生きる限り、身体という門を無視して

神に出会うことはできないのです。


そして、私たちがこの世界に生まれ落ちたのは

身体という門をくぐって、身体を超えていくため、とも言えるのかもしれません。


このシンプルな言葉の中に

「ヨガ」(特に身体的なハタ・ヨガ)の基底にある哲学が凝縮されているように感じています。


この身体を通じた大きな経験を、無事に通過できることを祈るばかりです。







# by umiyuri21 | 2019-08-21 22:12 | ヨガ

心の彼方で「私」と出会う 続 :ラマナ・マハルシとラマナアシュラム

心の彼方で「私」と出会う 続 :ラマナ・マハルシとラマナアシュラム_c0010791_16314966.jpg


ラマナ・マハルシとラマナアシュラム


南インドの聖地、ティルバンナーマライ。

シヴァ神の御神体そのものと呼ばれるアルナーチャラ山とその山を一生離れず愛し続けた、近代インド最大の聖者ラマナ・マハルシのアシュラムがある町。

ここが私の探求の出発点です。


とはいえ、別に最初から探求するつもりでインドへ行った訳ではありません。

何度も書いていますが、2012年にヨガの師であるジョシーと出会ったことがきっかけで、ケーララの村に住み込んでハタ・ヨガを学んでいました。


ところがその頃から、津波のように人生の難題が次々と押し寄せてくるようになりました。その激動をヨガでなんとか乗り越えようと頑張っていたのですが、どうにもカバーできなくなったのでした。


たまたまケーララであるアーユルヴェーダの先生に診察をお願いした時、先生にこう言われました。

「君の身体は大丈夫だよ。むしろ問題は心の方だね。心配事っていうのは一つ解決してもまた次がやってくる、それをいちいち気にしていたらキリがないんだよ。」


その時私は毎日アーサナを実践していましたし、朝は浄化法を欠かさず、菜食も今よりずっと厳格に行なっていました。

ポジティブ・シンキングやヴィパッサナー瞑想の本などもたくさん読み、瞑想もそれなりにやっていました。


表向きはスピリチュアルな生活をしていたものの、内面は問題でいっぱいの心を抱えていたのです。身体はヨガで変えられたものの、心の本質的な部分はそのままだったのです。


アーユルヴェーダの先生は私にこう言いたかったのでしょう。

問題を解決しようと躍起になるのではなく、問題を問題としない心を作りなさい。


さて、問題を作らない心を作る。


一体どうやったらいいのだろう?




アルナーチャラ山とラマナ・アシュラムの話は、ずいぶん前に当時習っていたヨガの先生から聞いていました。

でも、行ってみようと思ったきっかけは、たまたまケーララから近かったからです。

もしも私がリシュケシュでヨガを学んでいたら、探求は全く違うものだったかもしれません。最初にこの場所に出会ったことは、私には幸運なことだと思っています。


ティルバンナーマライはケーララから列車で一晩。インドの移動としては短い方です。

その頃「ラマナ・マハリシの教え」と言う本(山尾三省が翻訳した版)を一冊だけ持っていましたが、あまりよく分かりませんでした。

ただ、それは今まで私が知っていたスピリチュアルな教えとは、かなり違ったもののように感じました。


ラマナ・マハルシの教えは、日本語で不二一元論/サンスクリット語でアドヴァイダ・ヴェーダンタ/英語でノンデュアリティ、の流れに属します。また、インドではジニャーナ・ヨガ(知識の道)に分類されます。


「ブラフマン=真我だけが宇宙の唯一の実在者であり、そのほかは全て幻にすぎない。」

この宇宙はふたつ(不二)ではなく、究極的にはひとつ(一元)、ということです。

ざっくり言えば、それにつきます。


ラマナ・マハルシの説く道は、ひたすら「真我」を探求していくものです。宇宙の唯一の実在者が「真我」なのですから、私たちの本性もまた「真我」なのです。

その探求の骨子となるのが「私は誰か?」という問いかけです。


なんて、いきなり言われたって「はあ?」って感じですよね?

この日々の雑事や心配事に追われ、争い事や軋轢が絶えず、自分のパートナーや親とさえ分かり合うことができないこの世界が、何故一つなんだと?

なぜ私たちが真我なら、これほどに欲や煩悩や恐怖や苦しみにまみれているのか?


「真我は到達しなければばらないような、どこか遠い所にあるのではない。あなたは常に「それ」なのである。ただ、あなた自身を非真我と自己同一化するという習慣を棄て去らなければならないだけである。全ての努力は、ただそのためだけにある。」

(ラマナ・マハルシ)


私たちは真我でないものに、自分を自己同一化している。

真我でないもの、つまり幻。

この幻に自己同一化している状態が「エゴ」とも言えます。

自分を本当の自分ではなく、幻の自分(=エゴ)に自己同一化してるから苦しいってことなんです。

だから目を覚まして本当のことを知ればいい。

今とは違う、特別な何かになったり得たりするのではなく、ただ自己の本性を知りなさいと言うのです。


ほとんどの伝統的なスピリチュアルな教えは、厳格な修行法や浄化法、戒律などがきっちり定められています。

それをひとつひとつ、クリアしていかないと先へは進めません。


例えば、ヨーガの聖典「ヨーガ・スートラ」を読むと、そこには修行の階梯がしっかりと述べられています。

「ヨガの八支則」と呼ばれる、8つのステップがあります。

その8つのステップの中にも様々な段階があり、最終ステップの「サマーディー」においても、いくつものサマーディーを修める必要があります。


これ読んだら人は大概「こんなのできるわけない!」って思いますよ。(笑)

もちろん私もそう思いました。

しかし、当時はヨガの修練を続けていって、身体と呼吸が整い、

瞑想が深くなって心が強靭になれば、今自分が抱えている苦しみから、

逃れられるだろうと考えていました。



「真我を実現するために必要なことの全ては、静かにあること。それ以上簡単なことがあるだろうか。」


ところがラマナ・マハルシはこう言うのです。

それが私には目から鱗の一言でした。


方や山のような修行のステップが用意されており、もう一方はただ静かにして、自己の本性を知るだけでいい、と言う。

そもそも、私たちははじめから「それ」であり、到達すべきものではない、と。

これは一体どういうことだろう?


むしろこのシンプルな言葉の中に含まれた深い真意を、段階的に理解し、直接体験して行くプロセスこそが、「知識の道」であり、真我探求とも言えます。

最初にゴールを示して、そこから進んでいく

一段目から順に階段を登る、ヨガの道とは進むベクトルが逆だったのです。


ラマナも別に全ての修練を否定している訳ではありません。

それが直接真我実現へと至る道ではないが、心を強くするためには各々の心の状態に合った修練が必要だと対話集の中でもしっかり語っています。


ただ静かにしているだけでいい、という言葉にそそのかされても、

私たちを静かにさせない「心」がいつも動き回り、「真我」ではないものの夢へと誘い込まれてしまう訳で、実際はそんな甘いもんじゃなかったわけですが・・・(当たり前ですけど)


しかし、煩雑な戒律や修行法の垣根を取り払い、ダイレクトに真我への道を示す彼のシンプルな言葉は、ものすごく革命的に響きました。




心の彼方で「私」と出会う 続 :ラマナ・マハルシとラマナアシュラム_c0010791_16341665.jpg


アシュラムはアルナーチャラ山の麓にあります。

ラマナとその母のサマーディーホールが隣接して並び、その奥に小さな瞑想ホール、宿泊棟、食堂、図書館、オーディトリアムも併設されています。外国人向けの宿泊棟はアシュラムの外にあって、けっこう綺麗です。

敷地内は基本的に沈黙が保たれており、孔雀やサルがウロウロしていて、美しい静謐なエネルギーに満ちています。


朝夕にプージャ(儀式)やチャンティングの時間がありますが、特に決まった規則やメソッドがある訳ではなく、ただ静かにしていればいいだけです。

お昼休みの数時間は閉まりますが、早朝4時から夜9時まで自由に出入りできます。

そのゆるい放置感がなんともいいのです。


私は毎日アシュラムへ行き、静かに座って過ごしました。

別に何が起こる訳でもありませんでしたが、ただそこで静かに座っていれば、満足できる。それこそが不思議な体験でした。


当時私の心は、今より遥かに騒がしく、外へ外へと動き回り、駆り立てられ、何かになろう、何かを得ようと必死になっていました。

ですから目を閉じてもまともな瞑想などできるはずもないのですが、それでもここにいるだけで良いと、感じることができたのです。


今、その時の感覚を思い出してみると、まさにそれがラマナの「臨在」のなせる技だったのかもしれないと思います。


ラマナ・マハルシは沈黙の聖者とも呼ばれ、沈黙の中で伝達される言葉を超えた教えを、とりわけ大切にしていました。

本の記載によると、真我実現した彼の臨在を直接人々に伝達していたのです。

彼は死の間近にこう言い残しています。


「『私』がどこに行くというのか。どこへ行けるというのか。」


個としてのラマナが、死してもなおここに残ると言う訳ではありません。

私たちの本性は生まれることも死ぬこともない「真我」なのですから、

そもそもどこかへ行ったり来たりする存在ではないと言うことです。


しかし通常人は真我ではないものと自分を同一化しているので、

肉体を離れた後も、再び新しい肉体と同一化して輪廻を繰り返してしまうというのがインドの考えです。

しかし自己の本性を悟ったラマナは、もう新しい肉体に同一化して生まれ変わることはありません。(それが解脱。)


ラマナが肉体を去った後、大きな光がアルナーチャラ山の山頂に輝き、山とひとつになったという証言が残されています。


理論上は肉体が失われた後も、臨在はまだそこに満ちているということになります。


その臨在が、騒がしい私の心を静めてくれたのかもしれません。


しかし残念ながら、ただラマナ・アシュラムへ通って静かに座り、「私は誰か?」と問いかけ続けても、自力で変容を起こすことは簡単ではないのでした。

いくらそこに特別な何かがあったとしても、そこで起こっていることを理解できる知性と、解説してくれる誰かがいなければ、ただの一時的な不思議体験で終わっていまいます。


二度目にティルバンナーマライを訪れた時に、私はそのことを痛感し始めました。

ということで、私は生グル(生きている先生)を求めて、アシュラムの外にも目を向けるようになりました。

結局、じっとしていられない性分なのですよ。(苦笑)


ティルバンナーマライのシーズン中は国内外から多くの覚者(自称も含め)や先生がサットサンを開きます。ほとんどがお心付け(ドネーション)で参加できます。

旅人の集まるカフェに行けば、掲示板にこうしたサットサンのチラシが貼り付けてあるので、それをチェックして気になったところに足を運んでみる。


その中で、非常に印象深い人々に出会っていきました。

この話の続きも、いつか書いてみようと思います。


ラマナ・マハルシの言葉は学びが深まっていくにつれ、より魂に染み込みんできます。

わかったつもりで読み飛ばしていた箇所、さりげなく大切な事が語られていることに気が付いたり。

何度も何度も読み返しその度に発見があり、このふんどし一丁生き続けた、半裸のおじさんへの愛が募っていきます。


ラマナ・マハルシが私の探求の原点であり、「父」であることには、今も全く変わりはありません。







# by umiyuri21 | 2019-07-29 16:34 | 探求

心の彼方で「私」と出会う 

心の彼方で「私」と出会う _c0010791_00312640.jpeg


ただいま発売中のヨガ雑誌「Yogini」にエッセイを二本掲載しております。

いつもの連載と、「心の解剖学」と題された特集記事の中で「インド、心を巡る旅」

というタイトルで、インドでの心の探求の旅路を駆けながら書き綴りました。

心の領域というのは抽象的だし、自分もいまだ探求中ですから、理解が浅い部分も多々あり、それを限られた文字数で分かりやすく書くのはかなり難航しましたが、

最後はやっぱり少し、抽象的になっちゃったかなあ。


そんな流れもあり、このエッセイの補足もかねて、少し書いてみようと思います。


私の「心を巡る旅」は今も続いており、むしろインドから戻り、日本での生活の中でより深まっていったと感じています。

長年インドに向かっていた心を日本に戻し、地に足をつけて生活していくこと。

様々な実際的な問題、そして長年抱えてきてしまった健康上の問題に、きちんと対処しようと決意すること。

それは簡単なことではなく、今まで見えずにいた、内面の大きな暗部が浮き上がってもきました。



スピリチュアルな界隈で「探求」というと自己を巡る探求、つまり自分の内面に意識を向け、探求していくプロセスを指します。

多分サンスクリット語の「アートマ・ヴィチャーラ(真我探求)」という言葉に由来しているのかもしれません。

探求=修行という訳でもありませんし、何か特別な技を取得したり、境地を体験することを目指しているのでもありません。


「自己の本性を悟ることが解脱である。」


と、ラマナ・マハルシも言っておりますが、探求のゴールは「真我」、私という存在の本性を知ることです。

「真なる私」を知り、そこから離れずにいること。

ぶっちゃけガチな私探しの旅!とも言えます。

もちろん「真なる私」と「エゴ」は完全に別物です。


「私は誰か、という想いは、他のすべての想いを破壊するだろう。

屍を焼く薪の山をかき混ぜる木の棒のように、やがては、私は誰か、というその想い自身も滅ぼされてしまうだろう。

そうれば真我の実現がやってくるだろう。」

(ラマナ・マハルシ)


さて、この「真なる私」と出会う旅路に立ちふさがる手強い宿敵が存在します。

それが「心」です。

「心の働きを止滅させることがヨーガである。」

とヨーガ・スートラの冒頭にありますが、

インドでは心とは実体のないもので、むしろ心の働きそのものを指します。


「心と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。

想いを離れて心はない。それゆえ想いが心の本性である。真我の中から心が現れる時に世界が現れる。

それゆえに世界が(実在)として現れているときには、真我は隠されている。」

(ラマナ・マハルシ)


この心からあらゆる「想い」が現れてきます。

思考が現実を作る、とよく言われますが、この心の働きの巧妙さと複雑さは、観察していくにつれ、どんどん明らかになってきます。

私たちの人生と世界は、心の産物に他なりません。

心の現れに巻き込まれている時、「真なる私」は忘れ去られ、隠されています。

それが私たちの「分離感」「苦しみ」の源となっていきます。

「真なる私」とは絶対的に心の働きの及ばない場所にあるものなのです。


喜びも悲しみも、快適さも不快さも、夢も希望も失望も、恐怖も不安も欲望も、素敵な神秘体験もどん底の悪夢も、

あらゆる問題はみんな心が作っていた!


そう、私たちの人生を操っているのは

お金でもない、社会でもない、親でも先生でもない、闇の陰謀組織でもない

「心」なのです。


霧のように旅路の前に立ちふさがり、変化自在に形を変え、私たちを幻惑させ、私でないものを私だと勘違いさせ、

迷路に誘い込み、時に偽物のゴールさえ作ることができます。

油断すると進んでいるつもりで、同じところをぐるぐる回っていることになります。


そうした心の働きを明晰に観察し、それが織りなす夢にはまらない鋭い「気づき」を養うために瞑想という技法が育まれてきました。

心の迷路にはまっていると本人は気がつかないから、ごつんと頭を叩いて軌道修正してくれる先生が必要になります。

(私も叩かれ続けています・・・)


ですから、「真なる私」を探す旅とは、心という敵を知り、その妖術に巻き込まれないように徹底的に向き合っていく旅でもあります。

そして心に操られていた生を「真なる私」の元に奪還していく。


目覚めや悟りなどというと途方もないことのように聞こえますが

心が主人公の人生を「真なる私」が主人公の人生に変えていく。

その長い旅路とも言えるかもしれません。




ほんの最近になってようやく、内的な探求と外的な生活をリンクさせていくことの大切さを学びつつあります。

言ってみれば、インドでの探求は教習所で運転免許を取るようなものだったのかもしれません。

教習所という守られた環境で「若山ゆりこ」という車をどう運転するか、学んだだけです。


実際の運転は、今日、この日々の生活の中で続いていきます。

毎日思いがけない事が起こります。嫌なことも楽しいことも、対処すべき問題も。

慣れないので、居眠り運転してぶつかったり、急に止まったりしています。(笑)

それでも、運転を続けます。それしか、上手になる方法はないのですから。







# by umiyuri21 | 2019-07-25 00:14 | 探求


日々の暮らし、旅やアート、ヨガなどについて綴っております。


by 若山ゆりこ

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